そのうえでクラウス氏は
環境主義者も結局、共産主義者と同じ末路を迎えることになるだろう。(人間社会、経済、言語、法制度、自然、気候のような)複雑なシステムはすべて、無理やり管理しようとしても、必ず失敗に終わってしまう。・・社会主義者と環境主義者は一般に、システムが複雑になればなるほど、そのシステムの自然の動きに任せておけなくなり、指導したり、規制したり、計画したり、設計したりしなくてはいけない、と考えてきた。
と、共産主義的、計画経済的なトップダウンでの気候変動対策を批判し、経済成長による繁栄を必須の大前提としたうえで、「自由」な人間の合理的な行動選択や、科学技術の進歩による斬新な手法による気候変動対策や適応に任せるという、レッセフェール的なアプローチを提唱している。
私は、自由こそ、あらゆる環境に関する考えや要求が正しいかどうかを測定するためのたったひとつの正しい標準だと主張している。だから現在の地球温暖化に関する議論は、本質的には自由に関する議論なのだ。
上から強制的にあらゆることを制限したり禁止したり・・価格を法外に吊り上げる必要はない。経済成長を遅らせてしまうのは全くの誤りだ。なぜなら、経済が成長しなければ、発生した生態系の問題に対処することはできないからだ。成長こそが絶対的に必要な条件なのである。」
こうした上で、本書の執筆当時、2007年時点で世界の気候変動対策の要を担うとされていた、京都議定書にも攻撃の矛先を向けている。
なかでもとりわけ極端にはしりすぎているのは京都議定書である。この議定書は次のような理由から致命的な誤りを犯している。議定書は、なくても構わない目標まで設定している。議定書は解決できない問題まで解決しようとしている。議定書は経済成長を抑えようとしているが、経済成長がなければ生態系をはじめとする未来の課題に対処できなくなる。議定書を遵守しても目に見えた成果はあらわれない。議定書は現代社会に存在するはるかに重大で急を要する『解決可能な』問題から人々の目をそらせてしまう。
最善の方策は、現在の大変穏やかな気候変化と共存し、経済発展を促していくことだ。そうすることで将来もっと効果的な技術に投資できるだけの資本が生まれるだろう。
これが今から16年も前、世界がまだ「パリ協定(2015年12月合意)」も持たず、京都議定書の第一約束期間(2008年~12年)に入って、先進国だけが対策を開始する以前に書かれていることを考えると、クラウス氏の慧眼には恐れ入らされる。
まさに同氏がチェコの大統領として世界に発した警告どおりの事態が、2023年の今日、現実のものとして我々の前に現れ始めているのではないだろうか。
世界が掲げた2050年ネットゼロ排出という野心的な目標に向けて、今後各国政府が具体的な政策を展開していくにあたり、我々はこのクラウス氏のメッセージを今一度深くかみしめ、気候変動対策が思わぬ副作用を生み、将来、気候変動がもたらすであろう災禍を上回る人為的な災禍を社会にもたらさないように気を配っていく必要があるのではないだろうか。
同書の最後にクラウス氏は「ではわれわれは気候変動対策として何をすればよいのか?」という問いに対しする答えとして「楽観主義による提言」を掲げているので、これを紹介して本稿を閉じることにする。
楽観主義による提言
環境のために努力する代わりに自由を獲得する努力をしよう。 自由、民主主義、人間の幸福といった基本問題より、気候変動を優先したりしないようにしよう。 上から人間を組織せず、全員が自分なりの人生を送れるようにしよう。 温暖化といった流行現象に流されないようにしよう。 科学を政治的に利用するのを許さないようにしよう。・・多数派によってなされている「科学的合意」という幻想を受け入れないようにしよう。 自然に対して敏感で注意深くなろう。 人間社会の自発的進化に対し、謙虚な気持ちで信頼を寄せるようにしよう。 破滅的な予測を恐れたりせず、予測を利用して人間の人生に不合理な介入をさせたり、促されたりしないようにしよう。
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注1)同書では資源として石油などの化石燃料を想定して記述されているが、大気中の温室効果ガス許容排出量なども広い意味での資源量になる。
注2)この論点は、割引率をほとんどゼロ(0.1%)と仮定して将来の費用便益を見積もった「スタンレビュー」(2006年に英国政府委嘱により発表された)に対し、ノーベル賞受賞経済学者のウィリアム・ノードハウスが行った批判として同署に詳しく紹介されている。