環境主義とは、その結果がどうなるかなどおかまいなしに、人間の生命を犠牲にし、個人の自由を厳しく制限することで、世界を根本的に変えようとする運動である。

共産主義の場合と同様にこのような方法はユートピア的(非現実的)であり、目的とは全く異なる悲劇的な結果となってしまうのがオチだ。無理やり実現しようとすれば、人々の自由は制限され、少数のエリートが圧倒的多数の人間に命令を下すという状況が必ず生まれてしまう。

大切なのは、想像もできないほどの重大な危機を予言し、深刻な脅威を示すことで、人々に危機感を煽ることにあるのだ。このような危機的な空気が世の中に作り出されると、新しい義務が生まれてくる。

このような状況の中では機会費用といった考えは無視されてしまう。代議制民主主義のようにじっくり話し合って結論を決めていくという手続きは廃止され、一般の人々を無視し、状況を理解していると見なされる人間が直接決断を下すのである。

過去150年間、社会主義者は、人間を大切にしろ、社会的平等を守れ、社会福祉を充実させろといった、人道的で思いやりあふれるスローガンを実に効果的に唱えていたが、結局、人間の自由を破壊してしまった。環境主義者も同じように崇高なスローガンのもとに、人間より自然に対する不安を表明しながら、社会主義者と同じことをやっているのである。」

(ゴア元副大統領の著書「不都合な真実」の)最悪な点は、全く証拠もないのに、自分ひとりが真実の鍵を握る人間だという視点を人々に押し付けようとするやり方である。」

(彼らは)問題は『倫理的』なものだとみなしている。だから、なんのためらいもなく、私たち全員に頭ごなしに倫理を振りかざしながら説明している。

『ポピュリズム』の明確な特徴は、トレードオフを考えるのを拒絶することにある。要するに代案を考えることを拒み、どんなことにも交換条件が必ずあるという事実を拒否することだ。

私は環境主義を現代という時代のもっとも重大な反自由主義で、大衆迎合主義のイデオロギーと考えている。

こう断じたうえで、クラウス氏は第2章で、環境主義者の主張する、「資源の枯渇(今でいうプラネタリ・バウンダリ)」について論じている。

同氏によると資源枯渇は、現状の物理的な残存資源量が問題なのではなく、人類が経済的に利用可能な「価値のある(価格付けできる)」資源の供給可能量が問題なのであり注1)、それは利用技術や採掘技術、社会での需要などによって刻々と変化していくものである。その供給量を本質的に規定しているのは、人類の知識や科学技術なのである。

古代エジプト人の住んでいた土地の地下には、豊富な石油が埋まっていたが、それは「資源」ではなかったし、ピラミッド造営に使われることもなかった。技術的に使えない「資源」は無いのと同様なのである。

一方70年代のベストセラー「成長の限界」は、人口の急激な増加により食料やエネルギー資源が枯渇し、人類は存亡の危機に直面すると警告していた。しかしその後現在に至るまで、人口は3倍以上に増えたが、食料生産性の拡大により飢餓人口は減り、原子力、再エネの拡大やシェール革命などのエネルギー技術革新により、世界の一人当たりエネルギー供給量は拡大を続けている。

人類は長い歴史の中で、必要となる資源を、新たな知識、技術で次々に見つけ出すことで今日の繁栄を築いてきたのだとして いる。つまり(有用な)資源の供給量は、人類の知識や技術に依存しているのであり、その供給量には無限の可能性があるというわけである。

環境主義者は一般に(自分たち以外の)人間の自由を認めようとしない。彼らの反自由主義的、国家統制主義の考えの基礎には、人類(そして人類の技術的進歩)を信頼せず、自分たちにしか状況は変えられないというマルサス主義者の思い上がった信念がある。

資源を生み出す根本にあるのは、本来人間の知識の無限の成長なのである。

けだし名言といえよう。

このように、科学技術によって人類は繁栄を続けてきており、今後も人類は、今は想定できないような科学技術の進歩によって、眼前の課題、将来の危機を乗り越えてくだろうという「人間肯定論」に立つクラウス氏は、第4章で、気候変動対策の誤ったアプローチを批判している。

厳しい気候変動対策の導入を正当化する経済学の根底には、将来の科学技術や人類の知識の進歩を想定していないという決定的な誤りが存在し、結果として将来に対して「非現実的に低い割引率」を適用する(何十年後の未来の世代も、現在の我々と同じ技術、道具、知識に頼って生活しているという設定を意味する)ということが横行していると批判する注2)。