③ メーカー等も責任を負う可能性があれば、それに対して保険加入を求めるようになるが、そうなると保険業界として各事業主体に十分な保険を用意できなくなるおそれがあるので、原子力事業者のみに責任を負わせ、重複なく保険による賠償措置を講じることができるようにして、原子力事業者のために提供される保険の引受能力を最大化するため
などと説明されている。
このうち、①は、被害者が賠償請求を行う相手を原子力事業者に集中させる理由としては理解ができるが、求償権を制限して、原発メーカー等を免責する理由にはならない。③「保険の集中の必要性」については、前述したように、保険によって賄われる賠償措置額が、被害想定と比較して少額すぎ、集中させたところでたかが知れている。むしろ、大企業の多い原発メーカーなども、責任主体に加えたほうが、被害者への賠償責任を果たすという意味では適切とも考えられる。
結局、原発メーカーの製造物責任をほぼ全面的に免責にする理由は、実質的には、上記②の「民間企業が巨額の賠償責任を負うことを恐れて参入しなくなる事態を避ける」ということしかあり得ない。
しかし、民間企業という意味では、原子力事業者となる「電力会社」も同じである。同じく原発をビジネスとする企業であっても、電力会社は無過失責任、無限責任を負うのに対し、原発メーカーは原発事故に対してほぼノーリスクというのは明らかに不公平だ。
なぜ、原賠法がそのような不公平な制度の枠組みとなったのか。実際には、原発メーカーが免責されたのは、政治的・外交的理由であることが明らかになっている。その経緯には、GE(ゼネラル・エレクトリック)、東芝等の原発メーカーが関わっていた。
立法当時、米国らは冷戦時代に突入し、軍需産業としての原子力産業維持のため、原子力の平和利用を国策として積極的に推進していた。
この米国の意向を受けたGEは、円滑・安全なプラント輸出のために、自社の完全な免責に強くこだわり、日本の原賠法の立法過程にも口を出していた。原子力災害補償専門部会での当初案では「故意若しくは過失」により原子力損害を生じさせた場合には原子力事業者が求償できるとの規定であったのが、GEや東芝などの原発メーカーの要求によって過失責任が削られ、最終的に、原発メーカーは「故意」に原子力損害を生じさせた場合でない限り、何らの責任も負わない規定となったのである。
このような規定は、原子力事業者に、不当な責任を押し付けられているという意識すら生じさせかねず、原発メーカーのモラルハザードを生む危険性がある。
非常にあいまいな「国の責任」原賠法は、賠償責任が賠償措置額を超える場合の国の責任について、「必要と認めるとき」は、政府が原子力事業者に対して「必要な援助」を行うという極めて曖昧なものにとどめている。
世界では少数派と言える「無限責任」を原子力事業者に負わせることに加え、原子力事業者の資力を上回る損害が発生した場合に「援助」するに過ぎないというのも、我が国独自の制度であり、それによって、「国の責任」は非常に曖昧になっている。
「援助」とは、文字通り「助けてあげること」であり、義務ではない。また、援助の対象は原子力事業者であって、被害者ではない。国が直接的に被害者に賠償責任や義務的負担を負うのではなく、賠償責任を一義的に負う原子力事業者に対する資金「援助」を通じての間接的な支援にとどまるという構造となったことで、原子力政策における国・政府の責任や、賠償措置額を超えた場合の原子力事業者が負わなければならない責任の範囲等が、極めて曖昧なものとなっている。
もともとの法律の素案はこんな曖昧なものではなかった。1959年12月12日、故我妻栄東京大学名誉教授を会長とする原子力災害補償専門部会は、原子力事業が国を挙げて取り組む政策である以上、被害者の保護に欠けるところがあってはならないという趣旨から、「損害賠償措置によってカバーしえない損害を生じた場合には国家補償をすべきである」と答申している。
しかし、法案では国家補償制度は見送られ、「援助」という極めてあいまいな規定となった。
同時期に試算された莫大な被害想定が行われていたことを考えると、当初から、国が賠償責任を負うことによる財政的懸念が、原子力事業を開始することの支障にならないように、意図的に国の責任を曖昧にしたのではないかと考えられる。