「C+D+V」はそのままか

肝心なことは、「負担を将来世代へと先送りしない」のならば、何をどうすればいいのかにある。

そうすると、(1)の公式からは「C+D+V」、すなわち「政府予算+国債などの公的債務+社会保障費関連の潜在的債務」の削減方針もまた浮かんでくる。いわゆる無駄遣いを減らすことも同時に「基本理念」に組み込まれるはずである。

たとえば、この数年は防衛費と同額の6兆円であった「少子化対策」の成果が、「待機児童」を減少させた以外には記されていない(同上:9)ことからも分かるように、予算の使い方に問題がある政策も多かったように思われる。

その他にもコロナ関連の大盤振る舞い、東京五輪での予算超過と贈収賄事件、これまでに「地球温暖化対策」や「脱炭素」で無駄に使ってきた100兆円(渡辺、2022)など、予算でも公的債務でも削減できる費目は数多いであろう。しかし、その見直しに『全世代社会保障』は積極的ではない。

『全世代社会保障』の改革項目

『全世代社会保障』では、さらに「世代間対立に陥ることなく、全ての世代にわたって広く共有していかなければならない」(同上:5)とはいうものの、その共有方法は示されていない。

代わりに、若者から高齢者までを巻き込み、

75歳以上の公的医療保険の段階的引き上げ 出産育児一時金を50万円に増額(現在は原則42万円) 妊産婦向けの合計10万円相当の給付 子育て期間に時短勤務を選びやすくする給付制度の具体化(2023年以内) 介護保険料増やサービス利用料の負担割合の引き上げについての結論(23年夏)

などが具体策候補に上がっている。

これらの政策は人口反転には直結しないものの、いずれも当面の実効性が期待できるので、速やかな実行が求められる政策といってよい。

さらに詰めたい論点

一方で、報告書特有の表現「必要である」「すべきである」「重要である」に止まり、その実行法が示されず、したがって実効性の見通しに欠ける論点も多い。

第一に、たとえば「社会保障の機能が十全に発揮されるためには、人々を働き方や勤務先の企業の属性などによって制度的に排除することなく、社会保障制度の内に包摂していくことが重要になる」(:6)はその通りだが、ここで終わっては単なる「おとぎ話」(fairy tale)になってしまう。

具体的には私が40年以上勤務してきた大学の事例に絞っても、非常勤講師の方々は「制度的に排除」されたままであり、そこにはいわゆる「無期転換ルール」の問題が横たわっている。

これは、「同一の使用者(企業)との間で、有期労働契約が更新されて通算5年を超える時に、労働者の申込みによって無期労働契約に転換されるルール」であるが、大学や研究機関などでは特例としてそれが「通算10年」と定められている。

『全世代社会保障』では「その実効性を更に高めるための方策を講ずるべきである」(:15)と記されてはいるものの、1200余りの大学に勤務する数万人の非常勤講師の現状も「特例」として把握したうえで提言なのか。また全国的に増加してきた公立大学が、このルールの「適用対象」から外されたままでいいのだろうか。その場合の「実行性」および「実効性」とは何をさすのか。

社会的ジレンマ論は不要か

その他、第二として、「働き方に中立的」や「中立的社会保障」とは何か。今後のさらなる論点の筆頭に、社会保障全体像を束ねる意味でもこの「中立」の深化が求められる。なぜなら、一般的にもジェンダー格差があり、階層格差が日常的に固定しつつある中で、「中立的働き方」や「中立的社会保障」の手がかりとして、具体的指標が欲しいからである。

第三に、「全世代型社会保障の理念」のうち6頁目の「個人の幸福とともに、社会全体を幸福にする」は、学問的な社会的ジレンマ論を無視した言説でしかないという問題が残る。常識的には個人利害と共同利害との関連は、19世紀のコントが言ったように、「共同的利害とは個人的利害が多数の個人に共通的になった結果」(コント、1830-1842=1911=1928:93)といえる場合も確かにある。

たとえば健康については、健康な個人が多くなれば、社会全体の健康度も上がるから、コント命題は成立しそうであるが、その両者がいつも可能であるとは限らない。なぜなら、個人の側にはよくても、社会の側には負荷をかけるような社会的ジレンマが発生することも多いからである。

周知の例で言えば、個人にとっては預金や貯金は財産を増やすという利益をもつが、社会全体で預貯金が増大しすぎれば、消費が低迷して、企業業績が悪化して、社会的には景気が悪くなり、その個人が失業する危険性すら増すことがある注6)。

私悪は公益か

コントに先立つ100年前のマンデヴィルの『蜂の寓話』では、「私悪すなわち公益」(Private Vices, Public Benefits)が論じられている。

これは社会学や経済学ではその前史としても有名であり、「じつに多くのところで悪から善が生じて増殖する」(マンデヴィル、1714=1924=1985:86)に象徴されるような「私悪=公益」という思想が、その後の社会思想史でも受け止められてきた。たとえば『蜂の寓話』から62年後のアダム・スミスの「見えざる手」もまた、「個人の利己心の延長線上に社会の生産力の発展と利害の調整」が想定されていた。

一方で、その逆の事態、すなわち個人にとっていい行為(合理的行為)の集合が社会にとっては悪い結果(非合理的結果)を生むこともまた、社会学や社会心理学では実証的な社会的ジレンマ論として研究されてきた注7)。

社会的ジレンマの定義

社会的ジレンマとは、「人々が個人的合理性を追求する結果、社会的には非合理的な状態に陥ってしまうメカニズム」(海野、2021:38)である。そこには合理的行動のとらえ方を始め、社会的慣行と制度のかかわり方などの研究へと拡散するテーマが含まれている。ウェーバーのいう「目的合理的行為」「価値合理的行為」「感情的行為」「伝統的行為」に分けることも可能である(ウェーバー、1922=1972:39)。

その意味で、社会的ジレンマとは個々人が「合理的」に行為を積み上げても、社会全体では「非合理性」が蓄積して、その影響が個々人に非合理な形で還流するメカニズムといえる。

もちろん逆もまた成立して、社会にとっては合理的でも個人には非合理的な結果もあり得る。

たとえば納税が支障なく進むことは、国税庁という行政機関にとっては合理的ではある。しかし、国民にそのためのe-taxを強要すれば、パソコンを保有しない個人や使えない個人にとっては非合理的な結果しか生み出さず、ひいては納税自体が遅れてしまい、行政の租税収入がいつまでも確定しなくなるという不合理性が発生する。同じことが、2022年の半ば強制的な「マイナンバーカード普及」でも認められる。