八面六臂の活躍

(画像=『たびこふれ』より引用)
<三階吹き抜け部から見下ろす二階©KanmuriYuki>
高碕達之助がこのメキシコ・アメリカ生活で学んだのは、経営管理法だけではなく、理念というか哲学のようなものでもあったようです。特にスパイの嫌疑をかけられた時、世話になった、後の米大統領ハーバード・フーヴァーからは、大きな影響を受けたと、本人も述懐しています。そうしてその理念ゆえに、製缶業に留まらぬ活躍を続ける人生を歩むことになります。

(画像=『たびこふれ』より引用)
<高碕達之助が託した通信文(展示)>
1937年(昭和12年)の日華事変で鉄が足りなくなり製缶業が危機に瀕した時は、満州へ発ち、1年後には満州重工業開発株式会社総裁に就任。そのまま満州で終戦を迎え、残された日本人引き揚げのために、疲労困憊し昏倒するまで奔走します。同館の展示には、同氏が、そのころの状況を本国に訴えるために記し、密航者に託した通信文も並んでいます。
保存に一役買った荘川桜

(画像=『たびこふれ』より引用)
<高碕記念館に咲く荘川桜(提供:公益財団法人 東洋食品研究所)>
終戦後、日本に引き揚げてからは日本の技術や土木の向上のために骨を折り、電源開発株式会社総裁時代は、複数のダム建設に携わります。ダムで沈む荘川村の樹齢400年を下らぬ老桜二本を、笹部新太郎氏の力を借りて移植させたのも高碕氏です。高碕記念館の庭には、この荘川桜の子孫も植わっています。
理念に裏打ちされた粘り強い交渉術と、必要があれば即断即決を躊躇しない高碕氏は、その後、政界に招き入れられ、対中、対露いずれにおいても重要な功績を残します。