解説が素晴らしいガイドツアー

<暖炉のある居間©KanmuriYuki>
高碕記念館は、もともとは1923年(大正12年)に医学博士 諏訪氏の住宅として建てられ、1929年に高碕達之助の住居となったものです。いくたびかの増改築に加え、平成2年には全面的な改修工事が行われました。そのため、建築当時そのままの姿ではありませんが、見学の際には、そのあたりの違いも詳しく解説してもらえますし、内部には元の姿を再現した模型も置かれています。

<再現模型©KanmuriYuki>
延床面積は400平方m以上。元は、基本的に各階とも廊下が真ん中を通り、そこから放射線状に部屋が配置されている形となっていました。パンフレットには、「木造2階建て腰折れ屋根のコロニアル・スタイル」とありますが、屋根裏である三階も十分天井が高く、見晴らしの良い窓も備わっています。ヴォーリズが重きを置いたという台所も広く明るい部屋で、地下には広い貯蔵庫が備わっていました。暖炉のある部屋は四部屋と、洋室が主ではありますが、和室も取り入れ設計されています。
高碕達之助の魅力

<展示一部©KanmuriYuki>
記念館内部には、昭和4年から30年までここを住居とした高碕達之助に関わる展示が並んでいます。1885年(明治18年)現在の高槻市に生まれた同氏は、幼少のころは神社の狛犬に乗って足を折るなど『坊ちゃん』を地で行く無鉄砲ぶりを発揮していましたが、中学ではめきめきと成績を上げ、卒業時は首席に。この中学時代に、恩師の「日本人の生きる道は日本の四面をおおっているこの広い海洋を開拓する」(『私の履歴書』p.428)ことだという言葉に心を動かされ、一途に水産業を志すことになります。
農商務省水産講習所(現東京海洋大学)で学んだ後は、東洋水産会社で働き始めますが、経営は難航。それならば海外視察だと、メキシコの水産技術者応募に手を上げ、米大陸で約5年を過ごします。このあたりは同氏のもつ視野のグローバルさのなせるところでしょう。帰国後、製缶業と缶詰業は分けるべしと考えた同氏は、1917年東洋製罐株式会社を設立します。