大局的な判断への疑問
しかし、月尾は取り上げた16の事例の共通した特徴として、「中央政府の枠組にも地方政府の政策にも関係なく、独自の発想で実施した事業が成功している」(同上:186)と述べるだけに止まり、理論化の試みを丁寧にやっていないので、せっかくの事例が活かされにくい。
そのうえで、大局的な判断にも疑問が残る。一つは、月尾が明治維新150年を「否定」するという前提を採ったことである。明治からの150年間は、「増加」「集中」「物質」「開発」「工業」であったので、これらを時代錯誤と否定して、今後は「減少」「分散」「精神」「回復」「情報」が目指すべき方向という判断による(同上:12-13)。
明治期からの歴史の止揚
これはあまりにも簡便な要約であり、現実的ではない。私は明治期からの150年間は「否定」ではなく、「止揚」する立場であるが、明治時代では50歳に届かなかった平均寿命が平成時代になると80歳を超えた一例だけでも、医療、栄養、薬、住宅環境、医療保険などの制度が「開発」され、「増加」し、「工業」によって「増加」したことが背景にあることを想定しておきたい。
乳児死亡率が150‰を超えた明治時代から、120年の平成の終わりには1.8‰にまで「減少」した理由にも、「工業」、「開発、「増加」があることを位置づけておかないと、誤った推論になりやすい(連載第4回 人口史観)。
仮にインターネットがアメリカ国防総省における「軍事利用のための先端技術」から開始されたからと言って、今日では反戦主義者もインターネットを否定することがない。デモ行進の連絡手段やその成果の伝達に、インターネットが積極的に活用される。
同じく、明治期以降の社会システムを構成する物質的な環境も文化的な伝統も一部の国民が否定したところで、大半の国民の基層には残っている。年賀状もお中元もお歳暮もバレンタインデーも強制ではないが、しっかりと日本社会システムに根付いてきた。それを拒否する自由とともに、その実践をする自由もまた現代人には存在する。