個別指標も総合指標も不十分

「ドーナツ21世紀のコンパス」の「社会的な土台」分野を見ると、紹介された個別指標それぞれのデータ集約方法が異なるうえに、総合化への道については入り口の議論すらも行われていない。ラワースは30年前までの世界的な社会指標運動とその失速の歴史を学んでいないのであろう。

たとえば「土台の指標」として掲げられている「字が読めない人」が15%、「上水道を利用できない人」が9%、「同一労働における男女の賃金の差」が23%であったとして、これらをどのように組み合わせて「社会的土台」論を構築するのかについて、ラワースは何も語らない(:419)。

「土台」とされた12分野のそれぞれの若干の指標で、ラワースは何を論じたかったのか。「平均寿命が70歳未満の国に住む人」39%が「健康」分野の指標として適切な意味があるとして、それが「平和と正義」(「人口10万人当たりの殺人発生件数が年間10件以上の国に住む人」が13%)といかなる関連をもつのかもたないのか(:420)。

おそらく自らの研究に学術的な歴史に裏付けられた「法則性」指向があるならば、取り上げた指標およびそれが意味するものとしての「土台」の分野間で、因果関係までとは言わないが、正相関か逆相関の状態にあるかどうかという問題くらいは持てるはずである。

不幸にして学問の王道である「法則」への指向性が皆無のラワースでは、気持ちだけが先行しすぎたままであった。「環境的に安全で、社会的に公正」(:68)は正しいとしても、それは論述の結論ではなく、あくまでも出発点に過ぎない注33)。

羅列された「環境的な上限」

また、その「環境的な上限」についての扱いも「社会的な土台」と同じく並列しただけであった。地球環境9つの側面、すなわち「気候変動」「海洋酸性化」「化学物質汚染」「窒素及び燐酸肥料の投与」「取水」「土地転換」「生物多様性の喪失」「大気汚染」「オゾン層の減少」がラワース本では項目的に羅列されただけである。

そして「付録」としてそれぞれの分野に1つずつの指標が数値とともに紹介されている。ただし、「化学物質汚染」と「大気汚染」の2分野では、指標が「世界的な制御変数はまだ定まっていない」(:424)という理由で空白とされた。

注目しておきたいのは、単一の指標値に依存する形式で、「地球環境の許容限界を超えている項目」として、「気候変動」「窒素及び燐酸肥料の投与」「土地転換」「生物多様性の喪失」があげられている点である。

掲げられた具体的なデータをみると、「気候変動」では、「大気中の二酸化炭素の濃度」であり、現在は400ppmで上昇中(悪化)とされる。「土地転換」とは「人類による伐採が始まる前の森林の面積に対する現在の森林の面積の割合」が「許容限界」の75%をはるかに超えて、現在62%まで下降してきたことを「悪化」としている(:424)。

この定義で言えば、明治初年にはほぼ全道が原生林であった北海道の「土地転換」などは「極悪」になるのだろうか。同じく、メイフラワー号以来のアメリカ大陸の開発や流刑地として出発したオーストラリアもまた、「土地転換」の観点からは「悪化」と言わざるを得なくなる。