「役割モデル」としての準拠集団と準拠する個人
多くの場合準拠(reference 判断の素材として利用)するのは、本人が目標とする「集団」であり、同時に目標とする「個人」もまたその対象となる。
たとえば、ある中学生が将来サッカーの選手を希望するならば、知らず知らずのうちに好みのチームないしは選手のプレイや生き方を基準として、自らの努力を評価したり、反省したりする。あるいは医学部の学生が、身近にいる医師の言動や態度を模倣したり、歌手志望の高校生がひいきの歌手の物まねをする。
これらはいわば一種の「役割モデル」として、自己の「現状判断」の基準に転用される。その内容には、目標とした集団や個人がもつ地位と役割へのあこがれ、高所得、名誉や声望への同化意識などが混在しているが、人はそれらを準拠枠(照準の基準)として自己の「現状」(幸福度など)を判断し評価する。
すなわち周囲の存在との比較ではなく、今は所属していないが、身近な目標とする集団や個人との比較を通して現状判断を行う。そのために本人の「幸福度」もまた、過去の所得との高低比較はもちろんだが、近未来に目標とする集団や個人との比較により自らの「幸福度」の上下が判定される。したがって、社会全体で平均所得が上昇しても減少しても、自己評価の「幸福度」にはそれほど大きな影響を及ぼさないのである。この観点と方法は社会学や社会心理学以外には得られない。
「くたばれGNP」では何も解決しない
「目標を変える」に関する第二の論点は、「経済主導のGDPの成長」か「人類の繁栄」かである。ラワースの論旨は明瞭であり、1971年の「くたばれGNP」(朝日新聞)と同じ路線であり、「GDPというカッコウが巣から追い出されるのは時間の問題」(:64)とみて、「今は、大事なことは何かについて、もう一度語るべきときだ」(同上:64)という。大事なことは「尊厳と機会とコミュニティの世界」として、今世紀の指針としての「ドーナツ」にみんなが入ることになる(同上:67)。
本書のキーワードになったドーナツは「21世紀のコンパス」として、図式化されている(同上:69)。「すべての人のニーズが満たされ、なおかつ人類全員が依存している生命の世界が守られる未来がある」(同上:68)。
