時代遅れの政治経済学帝国主義
ラワースのいう「管理された資源」の「分配設計」でも「環境再生計画」でも、歴史的に見ると、学問とは無縁なままに政治的、経済的、思想的、世論的な勢力の強弱に応じてその詳細が決定されてきた。
さらに「目標を変える」柱の一つとして「成長にこだわらない」といいつつも、「成長してもしなくても、繁栄をもたらす経済だ」(ラワース本:47)というロジックはまるでマジックのような印象を受ける。
「根本から考え直そうとする」(:48)ことは当然だが、それはアダム・スミス以来の経済学史で一つの柱となって来た「法則」探究の廃止を意味しない。まして失われた「目標」として「価値」について語り、「富の蓄積ではなく人類の幸福を目標」(:65)に政治経済学を確立することでもない。それは政治経済学帝国主義ともいうべき単なる思い上がりである注30)。
一番の理由は「ドーナツの基本要素」とされた「21世紀の人類の目標」が、経済学単独では位置づけられず、対応もできないからである。「さまざまな知見を組み合わせて」(:24)といいながら、ラワースの知見は一歩も経済学を出ようとしない。ラワースの限界の一つがここにある。
ケインズからの引用文である「ほんとうにたいせつな問題とは、人生であり、人と人の関係であり、創造や振る舞いや宗教である」(:358)を受け止める力量は、経済学だけにあるのではない。それを本気で言っているのなら、短慮というしかない。なぜならそのような大問題の解決の見通しは、社会学や哲学も含めた人文社会科学系のすべての学問の協力があったとしても簡単には得られないからである。
社会学の「準拠集団理論」の威力
より卑近な例をあげておこう。本文でラワースが引用した調査結果、すなわちイースタリンが発見した「所得上昇と自己評価による幸福度」間の関連についても、社会学の知見を持たないと正相関か逆相関かさえ判断できなくなる。
その結果、「自己評価の幸福度が所得の上昇とともに増さないからといって、所得が上昇しなくても幸福度に影響はないとはいい切れない」(:379)という学術的分析とはほど遠い苦し紛れのコメントになってしまう。この延長上に「新しい地平を切り拓くほどの優れた洞察」(同上:410)などは、おそらく得られないであろう。
なぜなら、「人間はその行動や評価を決定するに当って、自分の属する集団以外の集団に自己を方向づける」(マートン、1957=1961:257)からである。この社会学の準拠集団論を知らなければ、「所得上昇と自己評価による幸福度」測定結果を正確には分析できない。
一般論としても幸福度の測定には、ジェンダー(性)、ジェネレーション(世代)、階層、人種、民族などの相違には当然配慮しておきたい。そして、さらにそれ以上の内容を分析するためには、評価する個人がもつ「過去」との比較、そして自らが生活上の目標とする「集団」や「階層」や「個人」との距離の測定ができるような項目を調査票に組み込みたい。そのような調査票から得られた「自己評価」データ結果の正しい読み取りには、マートンが定式化した「準拠集団理論」を活用することになる注31)。