『江藤淳と加藤典洋』262-3頁 (強調を付与)
といった読み方が、ふつうである。要は、加藤は「江藤淳らの改憲論の側に寝返ったぞ!」とみなされたから、当時は護憲派が主流だった論壇で袋叩きに遭い、キャンセルされかけたわけだ。
だが先入見なしに『敗戦後論』を読むと、妙なことに気づく。まさに江藤淳を主題として論じ、感激した江藤本人が礼状を送った『アメリカの影』(該当部は1982年)に比べて、同書の江藤評価はむしろ異様に辛辣なのだ。
具体的に引くと、
これを指弾する江藤は、河上〔徹太郎と〕同様、「清く潔白」な存在を善とし、それを自説の背骨としている〔が〕……彼自身汚れから自由であるはずのない江藤の「清く潔白な」観点からする「汚れ」の断罪は、むしろ完全に転倒しているという印象をぬぐいがたいのである。
ちくま文庫版、88-9頁 後日、現行の版に差し替えます
な感じだし、また江藤が昭和天皇の死後、福沢諭吉の論説を根拠にその無答責を主張したのを、
江藤の論は、天皇をまったく人倫の外におくことで、表面上、これを無実化するビホウ論であり、これ〔福沢〕の逆をいく。……いわば、世界を敵に回した天皇擁護論であり、福沢の「帝室論」と正反対の、戦後の天皇信奉の完全な破綻の図といわなければならない。
同書、303-4頁
と酷評してもいる。つまりボロカスである。
なぜ、そうなるのか。先月ご案内した、江藤と加藤を「転向論」として読みなおす拙稿に、ずばり答えを書いておいた。