また、国立公園の展望台から太陽光パネル群が視認されることで、観光資源としての景観価値も大きく損なわれる。世界に誇る湿原の眺望が、工業的な光景に変わってしまうのだ。

地域住民・社会への影響

工事に伴う大型車両の往来、騒音や粉じんは地元住民の生活に直結する。運用開始後も、パネルの反射光(グレア)、冬季の雪氷滑落リスク、除草剤使用の懸念など、生活や観光に影響を与える可能性がある。

再エネの推進は「地域振興」と結び付けられることもあるが、雇用や経済効果は限定的であり、むしろ観光業や住民生活にマイナスをもたらす恐れも否定できない。

「炭素吸収源」ではなく「炭素貯蔵庫」

ここで重要なのが、釧路湿原の「炭素貯蔵庫」としての価値だ。

確かに、湿原や森林が毎年吸収するCO₂は1ヘクタールあたり数トン程度に過ぎない。今回の開発地(27.3ha)であれば、年間吸収量はせいぜい約136トンCO₂程度だろう。これはメガソーラーがもたらす年間1.3万トンの削減効果と比べれば小さく見える。

しかし、湿原の真の価値は「毎年の吸収量」ではなく「長期に亘り蓄えられてきた膨大な炭素ストック」にある。釧路湿原の泥炭層には、1ヘクタールあたり3,000〜7,000トンものCO₂が固定されているとされる。対象地27.3haだけでも、合計10万トン以上のCO₂が貯蔵されている計算となる。

もし湿原が破壊されれば、湿原の泥炭や有機物が酸化し、数十年〜百年規模で大気中に放出される。つまり、年間削減1.3万トンの効果を一気に吹き飛ばすほどの排出リスクを抱えているのだ。

湿原は「小さな吸収源」ではなく「巨大な炭素貯蔵庫」。この視点を抜きに、単純に「再エネでCO₂を削減できる」と評価するのは片手落ちである。

誰が責任を負うべきなのか

ここで重要なのは、「なぜこんな立地で事業が認められたのか」という点だ。責任の所在を整理してみよう。

事業者の責任 事業者は「合法的に認可を得た」と主張するだろう。 しかし、LCOEが市場価格を上回り、FITやFIPによる国民負担を前提に利益を確保している点は批判を免れない。 事業者は「再エネ推進」を盾にしつつ、実際は制度に依存した補助金ビジネスの色彩が濃いのである。 行政の責任 認可を出した釧路市や北海道庁は、環境影響評価や立地の適否を精査する責務を果たしたのか。 現市長が規制の方針に転じたことは評価できるが、それ以前に許可を出した行政の判断は厳しく問われるべきだ。 釧路湿原という国際的に希少な自然の隣で大規模造成を認めたことは、行政チェック機能の重大な欠落を意味する。 政治家の責任 中央政治の責任も大きいといえる。

菅義偉(当時首相)、小泉進次郎(元環境大臣)、河野太郎(当時規制改革担当)、柴山昌彦(再エネ議連会長)らは、再エネ推進と脱炭素を強く後押ししてきた。 北海道知事(鈴木直道氏)や前市長(蝦名大也氏)も、「地域振興」「再エネ導入目標」の名目で事業を承認した。

直接的な刑事責任を問うのは難しいにせよ、政策判断の誤りに対する政治責任・説明責任は避けられない。

制度そのものに潜む瑕疵