折々の「いま」だけがバラバラに存在して、それを貫き、時間をまたいで生きる人格を、誰も想定しない。だから、当時こう言いましたよね、と訊かれても、出てくる言葉は反論でも弁明でもなく、「知りません」「言ってません」になる。
なので、来月から次の本『専門家から遠く離れて』(仮)の執筆が本格化するけど、それは歴史をやめて現代ネタに転ずるのじゃなくて、むしろ『江藤淳と加藤典洋』の正統な続編にあたる。
そんな次第をお話しする動画を、「ことのは」のYouTubeが上げてくれた。そこで『専門家』でも使う予定の、加藤典洋さんが昭和天皇の逝去の直後に書いた文章を紹介している(10:26~)。
当時の日本は、天皇個人、あるいは天皇制の存続をもって「国体」の護持はなったと考えていたわけだが、この護持された「国体」は、けっして戦争の “負け点” を引き受ける意志をもっていたわけではない。
それは一国民代表(東條英機、あるいは近衛文麿)を身替わりに、いわば、主権(当事者能力)の放棄とひきかえに、自己の存続を全うしたというのが事実に近い。それなら、誰がこの負けゲームの主体を引き受けるべきか。引き受けるべきだったか。
「「敗者の弁」がないということ」 『「天皇崩御」の図像学』、53-54頁 初出『毎日新聞』1989.1.23
主権にカッコして「当事者能力」と補ってあるのが、なんともいい。主権の問題といっても、ここで加藤が描くのは、WGIPガー! 勝者の裁きガー! 押しつけ憲法ガー! の、どれでもない。