講談社学術文庫で「Ⅰ~Ⅳ」まである「史録Ⅰ」の解説で、江藤はこれを編むに至った経緯をこう記している。

従来は、個人的記憶や回想の雑然たる集積として語られるほかなかったこの時期(*占領期)が、漸く一次資料の批判と検証を前提とする学問的な手続きを経て、歴史記述の対象となり得るようになった。換言すれば、占領期に関する正確かつ客観的な歴史記述は、今この外交資料公開をきっかけとして、初めて可能になったのである。

江藤は続けて、「本巻所収の外交資料について、以下簡単に問題点を指摘すれば、先ず浮かび上がって来るのは何時を以て終戦の時期とするかという問題である」とし、いくつかの出来事を説明した後、こう述べる。

・・このように考えるならば、停戦の意味における終戦の時期は、やはり8月15日正午ではなくて、降伏文書の調印が完了した9月2日午前9時8分としなければならないように思われる。すなわちこれが、戦前と戦後を分かつ時刻である。

「いくつかの出来事」とは、日本によるポツダム宣言受諾から降伏文書調印に至る2週間余りを利用してソ連軍が満州・北朝鮮・樺太・千島に侵攻したこと、及びそれにまつわる大本営とマニラのマッカーサー米太平洋陸軍司令部との間の遣り取りである。

マッカーサーは「合衆国、中華民国、連合王国およびソビエト連邦からなる連合国最高司令官に任命され、かつ出来る限り早い期日に戦闘行為を停止するため、直接日本の官憲との間に取り決めを為す権限を付与された」ことになっていた(「史録」収録の45年8月15日22時35分「重慶放送」要旨)。

よって大本営は当然、マッカーサーの指揮権がソ連軍にも及ぶと考えて、8月17日に至っても侵攻を止めないソ連軍を憂慮し、マニラのマッカーサー司令部に「貴司令官においてソ連側に対し、即時攻撃方、要請せられんことを切望す」との至急電を打った。

19日にも、「貴軍隊の一部が18日に占守島に上陸せり。・・その敵対行為の早急な終息切望に堪えず」と打電した。ここでも大本営は、ソ連軍を「貴軍隊の一部」としている。マニラへの至急電は24日にも繰り返され、それは22日にソ連潜水艦が起こした「三船殉難事件」に触れていた。