6)日本政府に対する通知(8月11日) 追ってバーンズ国務長官からスイス政府経由で、以下の通知が日本に対してなされた。バーンズは、ポツダム宣言と11日付の「バーンズ回答」が、日本側に受け入れられたとの前提で事を運んでいる。

「米国政府、中国、英国およびソ連を代表して私が、貴兄を通じて日本国政府に8月11日に送った通信に対する、ポツダム宣言および1945年8月11日の私の声明の完全な受け入れとして私が見做すところの、日本政府の回答を送達する本日付の貴兄の通信に関して、米国大統領が、次の声明書が日本国に送達するために貴兄に送られることを指示したことを貴兄に報告することを私は光栄に思います。」

7)日本の最終受諾(JST8月14日) 日本政府は、8月14日にスイス政府を通じて宣言受諾を連合国側に通知した。スイス政府による米国への通知の書き出しは次のようである。これに続く日本政府の表明の詳細は省略するが、「天皇の権限」に関する特段の言及はない。

「日本国政府は、彼らが最も切望しているポツダム宣言の条項の確実な履行に関して、米国、英国、中国およびソ連各政府に声明することをお許し願いたいと望んでいます。このことは署名の時点になされるでありましょう。しかし適切な機会が得られないことを危惧して、彼らは失礼を顧みず、スイス政府の善良な政権を通じて、四強国政府に表明しています。」

書き換えられたグルーの宣言草案

話が前後するが、米国側の宣言文案の策定過程を少し詳細に追ってみる。

1945年に入る頃には、欧州だけでなく太平洋の戦線もほぼ帰趨が決していたので、米英ソ首脳は、2月4日から11日までクリミア半島のヤルタに会した。議題はドイツ降伏までの最終計画や欧州の戦後計画、国連会議の日程などを主とし、加えてドイツ降伏後2~3カ月以内にソ連が日本に参戦するとの密約(ヤルタ密約)もなされた。

密約など知る由もない日本はソ連の和平仲介に望みをかけ、天皇親書を携えた近衛文麿公の訪ソを7月に決め、佐藤尚武駐ソ大使を通じ再三申し入れた。が、東郷茂徳外相と佐藤大使との外交暗号のやり取りを傍受解読していた米国の関心事は、原爆完成が近いこともあり、専ら日本降伏の時期にあった。