3)鈴木首相の会見と新聞報道(JST1945年7月28日午後) この時の首相発言の正確な記録は残っておらず、あるのは新聞報道と鈴木本人及び周辺の者らの回想記録のみである。政府は27日と28日に報道機関に対し、「論説不可、個々の条件の内容是非論議不可、但し、日本の名誉と存在に触れる点については、反駁、冷笑は可」といった趣旨の縛りをかけた。

これを受けた28日の朝刊各紙、例えば『朝日新聞』は「米、英、重慶 日本降伏の最後条件を声明、三国共同の暴力放送」「政府は黙殺」「多分に宣伝と対日威嚇」との見出しを付けた。後年、鈴木首相は「この宣言は重視する要なきものと思う(と言った)」と回想記に書き、常に近くにいた同盟通信海外局長の長谷川才次も「総理ははっきりしたことは何も言われなかった」と回想録に記している。

日本の報道を注視していた米国の反応はと言えば、トルーマンは回想録に「7月28日の東京放送は、日本政府が戦いを継続する意向であると発表した。米国、英国、中国が共同で出した最後通告への正式回答ではなかった」と記している。この時点で日本側は「この宣言は重視する要なきもの」と考えていたのだから、トルーマンが「正式回答ではなかった」と書くのも当然であった。

4)日本の回答(JST1945年8月10日。以下もJST) 異例な発表方法から当初は「重視する要なきものと思う」していた宣言を日本が受諾するに至った理由は、原爆投下とソ連の参戦である。日時は前者が、6日午前8時15分の広島と9日午前11時2分の長崎、後者が8日未明であり、「聖断」は9日午後11時から始まった御前会議で、日付が変わった午前二時過ぎに下された。

原爆とソ連のどちらが「聖断」に引導したのかという議論がある。筆者は、最後まで望みをかけていたソ連の和平仲介に対し、8日午後5時に宣戦布告を以って回答がなされ、同日未明に満州と北朝鮮に赤軍が押し寄せたことの影響がより大きかったと考える。6日の広島への「新型爆弾」では動かなかったし、爆撃という意味では2月の東京大空襲を始め、全国の主要都市が連日空襲に遭っていたからだ。