そうした、まだ口を開かない沈黙に耳を澄ます技法としてのみ、歴史はこれからも意味を持つ。世界が History-less になるときほど、そうした「気遣い」としての歴史が、いっそう大事になる。大学の歴史学はもう要らないが、批評としての歴史は、これからが本番だ。

参考記事:

同じ本を「違って読める」ときにだけ、その人は自由である|與那覇潤の論説Bistro
発売中の『文學界』7月号で、上野千鶴子さんと対談した。タイトルは、ずばり「江藤淳、加藤典洋、そしてフェミニズム」。ネットでも2つ、PR用の抜粋が出ている(もう1つのリンクは後で)。
「歴史なき時代における『成熟』とは何か?」 與那覇潤と上野千鶴子の白熱対論 | 文春オンライン 戦後を代表する文芸評論家、江藤...

(ヘッダー左は、『群像』1979年6月号。評論部門で入選した「新人」にも、時代を感じますね)