なぜ、そんなことになるのか。原因は、国家主権の捉え方がナイーブ(幼稚)だったことに尽きると、ぼくは考える。

主権とは、ざっくり言えば「ある国(の政府)がどんな行動をとるかは、その国だけが決定できる。他の国の指図は受けない」という原理のことだ。ある国が「これをしたい」と言うのを、よその国が「するな。やったら戦争だぞ!」と脅したら、主権の侵害であり内政干渉だと抗議される。

この理屈は、西側が「ウクライナのNATO加盟阻止」を謳うプーチンを批判するのには役立った。しかしイスラエル・イラン紛争の調停には、なんの役にも立たない。イランが核武装するのだって「その国の主権なんじゃないんすかぁ?」と言われたら、それまでだ。

ましてイスラエルは、非公然の形で前から核兵器を持っている。最もオイシイ形で「核抑止」の実益だけを得ている国が、他の国に「お前らが持つのはルール違反」と言い出したらオカシイことは、あなたがシオニストか、イスラムフォビアか、名誉白人でなければわかる。

言い換えると、国家主権というのは別に無謬の原理じゃなくて、ぼくらは常々、互いに相手の主権を「侵害しあいながら」生きている。文字どおりに主権の原理を徹底して、どの国でも核開発し放題になったらマズいから、まぁその点に関しては、100%の主権は諦めましょうというわけ。

憲法に「戦争の放棄」を定める条項があるのも、平和主義なる絶対の真理が天から降臨してそうなるのではなくて、軍備も開戦もその国の主権だけれども、振り回すとダメージが大きいから「お互いに主権を制限しましょう」という趣旨で、書きこまれることが多い。