政治は、その絶望に応えることができなかった。この政治的な「無風状態」の水面下で、既存の政党が全く光を当ててこなかった、新しい種類の「不安」が、マグマのように蓄積していたのである。

「食」への不安:食料自給率の低さ、輸入野菜の農薬、食品添加物、遺伝子組み換え作物…。毎日口にする食べ物が、本当に安全なのか。自分たちの子供たちに、安心して食べさせられるものは何か。国家や大企業は、国民の健康よりも、経済効率を優先しているのではないか。 「健康」への不安:西洋医学や製薬会社への不信感、ワクチンへの懐疑心。病気は、医者や薬に頼るのではなく、自らの免疫力や食生活で改善すべきではないか。国際的な保健機関(WHOなど)の指針は、本当に私たちのためになっているのか。 「教育」への不安:子供たちは、日本の歴史や文化に誇りを持てるような教育を受けているのか。ジェンダーフリーなど、海外から入ってくる新しい価値観は、日本の伝統的な家族観を壊してしまうのではないか。

これらの不安は、従来の政治的な争点(経済成長率、安全保障、社会保障費など)とは、まったく質の異なる、「私たちの身体と、心と、子供たちの未来は、得体の知れない大きな力に乗っ取られようとしているのではないか」という、極めて根源的で、生活実感に根差した恐怖だった。

第三節:機能不全に陥った「受け皿」──既成政党が生んだ“政治的空白”

日本社会にこれほどの「不安」が蔓延していたとしても、本来であれば、それを受け止め、解決策を示すのが政党の役割である。しかし、2020年代初頭の日本の政党政治は、国民の絶望的なまでの期待不全の中にあった。与党も野党も、国民が本当に求めている声に応えられない「機能不全」に陥り、そこに巨大な“政治的空白”が生まれていた。

1.巨大与党(自民党)の「魂」の喪失

「古い自民党」の問題:長年の派閥政治と、後を絶たない「政治とカネ」の問題は、国民に根深い政治不信を植え付けた。 「新しい自民党」の問題:より深刻なのは、自民党自身の「変質」である。グローバル経済の要請に応え、多様性などのリベラルな価値観に配慮するあまり、本来の支持基盤であった保守層が最も大切にする「日本の国柄」「伝統」「国家としての誇り」といった“魂”の部分を、ないがしろにしてきた。対中政策における経済界への配慮も、多くの保守層に「弱腰」と映った。結果、自民党は「もはや真の保守政党ではない」と考える、行き場のない「失望した保守層」を大量に生み出した。

2.野党第一党(立憲民主党など)の「身体」の無視

批判勢力の限界:旧来の野党は、「批判ばかりで対案がない」と見なされ、政権担当能力への期待を失わせて久しい。安全保障や経済政策において、多くの国民が抱くリアリズムと乖離した主張は、支持の広がりを自ら阻害してきた。 内向きの支持層:さらに致命的だったのは、彼らの支持基盤が労働組合や特定のリベラル市民層に偏るあまり、国民全体の関心事から遊離してしまったことだ。彼らが人権やイデオロギーを語る一方で、参政党が取り込んだ、名もなき普通の人々が抱える「食は安全か」「健康は守られるか」といった“身体”の不安は、彼らの政治的アジェンダには全く入っていなかった。

結論:“魂”と“身体”の受け皿の不在

こうして、自民党は「保守層の魂」を、野党は「生活者の身体」を、それぞれ置き去りにした。 まさにこの、「魂(伝統・国守り)」と「身体(食・健康)」の両方の不安に応える政党が、どこにも存在しないという、巨大な政治的空白こそが、参政党ブームを必然たらしめた最大の要因である。「自分たちの声を聞いてくれる政党が、どこにもない」──そう感じた人々にとって、両方の不安に応えると主張する参政党の登場は、砂漠でオアシスを見つけたかのような衝撃だったのである。

第四節:参政党の源流──「大和心」と「DIY精神」の合流

世界の「気候」が整い、日本の「土壌」が耕され、そして既成政党が「政治的空白」を生み出した。しかし、種は自然には蒔かれない。そこには、明確な意志を持った「種を蒔く人」が存在した。参政党という、一見すると寄せ集めにも見える組織は、いかにして生まれ、どのような思想的バックボーンを持っていたのか。その源流は、二つの異なる流れの合流点に求めることができる。

源流その1:神谷宗幣氏と「龍馬プロジェクト」という政治インフラ