そして、この分岐をさらに決定的なものにしているのが、第二の要因、すなわちれいわ新選組の党名そのものに横たわる、歴史的な「矛盾」である。
「新選組」──。この言葉を聞いて、多くの日本人が思い浮かべるのは、幕末の京都で、徳川幕府のために、反幕府勢力、すなわち「尊王攘夷」を掲げる志士たちを、容赦なく斬り捨てた武装警察組織の姿だろう。彼らの忠誠は、あくまで「徳川将軍家」に向けられていた。そして、戊辰戦争の最終局面において、彼らは天皇の軍を示す「錦の御旗」を掲げた新政府軍と戦い、「朝敵(ちょうてき)」、つまり天皇の敵と見なされた存在である。
ここに、深刻なねじれが生じる。 山本太郎代表が率いる「れいわ新選-選組」は、現代の「エスタブリッシュメント」である自民党政権を、徳川幕府になぞらえ、自らをそれに立ち向かう「幕末の志士」のように位置づけている。支持者の多くも、その比喩を抵抗なく受け入れているだろう。
しかし、歴史や伝統を重んじる保守的な視点を持つ人々、特に「皇統の維持」や「国体」といった概念に強いこだわりを持つ層から見れば、これは単なる比喩では済まされない。「天皇の敵であった組織の名前を、なぜ堂々と党名に掲げるのか」という、根本的な違和感と不信感に繋がるのだ。
彼らにとって、この党名は、歴史に対する無理解、あるいは意図的な無視と映る。「反エスタブリッシュメント」という姿勢には共感できても、「朝敵」の名を冠する党を支持することは、自らの信条に反する。
ここに、参政党が持つ「受け皿」としての強みが現れる。 参政党は、その思想の核に「皇統の維持」「日本の国柄」「神話からの歴史教育」といった、徹底した「尊王」的な価値観を据えている。
つまり、「既存政治にはうんざりだが、日本の伝統や皇室は深く敬愛している」という層にとって、れいわ新選組の党名が持つ「歴史的瑕疵(かし)」は、彼らを支持できない決定的な理由となる。そして、その層が「反エオリタ」の思いを託せる、もう一つの選択肢を探した時、思想的に「クリーン」で、むしろ自分たちの価値観を純粋培養したかのような参政党が、完璧な受け皿として、そこに存在しているのである。