れいわ新選組が「消費税廃止」と「積極財政」を掲げ、政府が通貨発行権を用いて、国民生活に大胆な投資を行うべきだと主張するのは周知の通りだ。 一方、参政党もまた、「緊縮財政は財務省のプロパガンダだ」と断じ、政府はもっと国債を発行して、国内のインフラや産業に投資すべきだと訴える。
両者の主張の根底にあるのは、「国債は、国民の借金ではない。政府は、自国通貨建てである限り、財政破綻することはない」という、現代貨幣理論(MMT)に近い考え方だ。
これは、日本の政治における、極めて重要な地殻変動を示している。これまで「財政規律」を金科玉条としてきた自民党や、それを批判するにしても「無駄の削減」を訴えるのが常だった旧来の野党とは全く異なる、「もっと金を使え」という新しい経済思想が、「右」と「左」の両翼から、同時に立ち上がっているのだ。
「失われた30年」の閉塞感の中で、もはや「痛みを伴う改革」や「我慢」では未来はないと感じる国民にとって、この「打ち出の小槌」のような経済思想は、左右のイデオロギーを超えて、強力な福音として響いているのである。
第三節:なぜ「右」と「左」に分岐したのか──「喪失の物語」と「党名の矛盾」
同じ水源から出発しながら、なぜ彼らは、二つの異なる川となって流れていったのか。その分岐点を決定づけたのは、第一に「私たちは、エスタブリッシュメントに、何を奪われたのか」という、その「喪失の物語」の違いである。
れいわ新選組の物語:「経済的な豊かさと尊厳を奪われた」 れいわが語るのは、新自由主義的な経済政策によって、非正規雇用に突き落とされ、障害や病気によって社会の片隅に追いやられ、「人間としての最低限の暮らしと尊厳」を奪われた人々の物語だ。彼らにとっての救済は、国家による徹底的な「再分配」と「弱者救済」である。その思想は、必然的に「左派」へと向かう。 参政党の物語:「精神的な誇りと共同体を奪われた」 参政党が語るのは、グローバル化と戦後教育によって、「日本人としての誇り、美しい伝統、そして安全な食や健康が保障された共同体」を奪われた人々の物語だ。彼らにとっての救済は、国家による「伝統文化の復興」と「外部の脅威からの防衛」である。その思想は、必然的に「右派」へと向かう。
片や「パン(経済)の喪失」を、片や「魂(文化)の喪失」を嘆く。 この、どちらも現代日本が抱える、紛れもない「喪失感」に根差しているからこそ、両党は、それぞれの支持者にとって、抗いがたい魅力を放っているのだ。