参政党が掲げるこの「日本を取り戻す」という物語は、なぜこれほどまでに人々の心を惹きつけるのか。その答えは、現代日本を冷徹に分析する作家・橘玲氏の世界観と比較することで、より鮮明に浮かび上がる。
橘玲氏がその著作で繰り返し描くのは、グローバル化によって、日本の伝統的な社会システム(終身雇用、年功序列など)が崩壊し、誰もが「知能」と「金融資産」を武器に、自己責任で生き抜くしかない、という「残酷で、冷徹な現実」だ。そこでは、国家や共同体はもはや個人を守ってくれず、剥き出しの個人が、世界規模の競争に晒される。
参政党が提供する世界観は、この「橘玲ワールド」への、全身全霊の、情念的なアンチテーゼなのである。
橘玲が「世界標準の競争を生き抜け」と説くのに対し、参政党は「グローバル化の奔流から身を守る、日本のための防波堤を築こう」と呼びかける。 橘玲が「頼れるのは自分だけだ」と突き放すのに対し、参政党は「私たち『日本人』という仲間がいる」と、共同体の温かさを提示する。 橘玲が「残酷な現実を直視せよ」と合理性を求めるのに対し、参政党は「誇り高い物語を信じよう」と、精神的な高揚感を提供する。
つまり、参政党の思想の核心にあるのは、冷徹な個人主義と自己責任の社会に疲弊し、そこから逃れたいと願う人々に対する、「大丈夫、ここにはまだ、温かくて、誇り高い、守られた共同体がある」という、甘美で力強いメッセージなのだ。
彼らが掲げるナショナリズムとは、単なる排外主義ではない。それは、グローバル資本主義という、顔の見えない怪物に怯える人々が、最後にたどり着いた「精神的な安全保障」の形なのである。
第4章:日本のポピュリズム──なぜ「参政党」と「れいわ新選組」は同じコインの裏表なのか
参政党という現象を、日本政治の文脈で、より立体的に理解するためには、どうしても避けて通れない比較対象が存在する。それは、同じく2019年の参院選で国政に登場し、熱狂的な支持層を形成した、「れいわ新選組」である。