瞬時に命が奪われ、家族すら遺体と対面できない現実が、この比喩を生んだのかもしれません。

2つ目は、公式記録での使用です。

広島市が1971年に刊行した公式の被害記録『広島原爆戦災誌』にも、爆心地付近では「ほとんど蒸発的即死」に近く、死体も骨片もほとんど見当たらなかったと記されています。

公式な資料にこうした表現が載ったことで、「蒸発」という言い方がある種の事実であるかのように受け取られ、語り継がれる一因となりました。

そしてこの誤解は学校での平和学習を通じて、多くの人々の記憶に残ることになります。

中年以降の方々の中には、学校の先生や講師などから「原爆の熱で人の体が蒸発し影だけ残った」という文言を直接聞いた人もいるでしょう。

3つ目は、メディアでの脚色です。

先にも述べたように2005年放映の英国BBC製作のドキュメンタリー番組『ヒロシマ』では、銀行の石段に座っていた男性が閃光と同時に煙だけを残して蒸発するCGシーンが描かれました。

また商業的な映像作品でも、原爆の熱が人間を煙のようにかき消すシーンがたびたび描かれてきました。

こうした報道や映像表現が俗説のイメージをさらに定着させた面は否めません。

このように、「人間が蒸発した」「炭化した体が石にこびりついた」といった言い伝えは、戦後の混乱や悲劇の伝聞の中で半ば伝説のように形作られ、教育やメディアを通じて広まっていったのです。

原爆投下の悲劇を語るには事実だけで十分です。

しかし蒸発神話は決して「脚色」の一言で済ませられるものではありません。

多くの人命が無数の水分子が気化するように「蒸発的」に失われたという当時の人々の印象は本物だからです。

今後の蒸発神話は物理現象ではなく、人々の受けた衝撃や悲しみの印象を表す感嘆符に進化して語り継がれていくべきでしょう。

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元論文

Manhattan Engineer District『The Atomic Bombings of Hiroshima and Nagasaki』(1946)
https://digirepo.nlm.nih.gov/ext/dw/14110660R/PDF/14110660R.pdf?utm_source=chatgpt.com