内地米を台湾で栽培する場合、在来米で使う苗よりも若い苗で田植えする方が、良い成績を上げるというもの。苗代期を短くして出穂までの日数を稼ぐことで、丈の高い稲になるというのである。以来、この「若苗」の方法が今日の「蓬莱米」栽培の標準となった。

一方、留学を終えて帰国し、21年8月に総督府中央研究所農業部種芸科長になった磯は、渡台直後に登った台北郊外の陽明山南麓の盆地「竹子湖」に、内地米の原種田を設けた。内地米でも「純系育種」を求めたのである。盆地なので在来種との交雑や病虫害も防げる上、低湿度ながら雨量豊富、肥沃な地質は九州に似ていた。「中村」もここで好成績を上げた。

二期作にも成功し、台湾全島に普及した「中村」は内地にも移出され、歓迎された。斯くて第10代伊沢総督は26年4月、これら内地米を「蓬莱米」と命名した。が、話はこれで終わらない。「中村」には「いもち病」に弱いという難点があったのだ。病気に強い内地米が切望された。

これに応えたのが末永だった。24年に内地種の「神力」と「亀治」を交配して好結果を得、なお膨大な実験栽培を続けていた27年、実験田の65番目の畝に育ちの良好な稲を発見する。収穫量も多い上、病気に強く育て易い「台中六十五号」がここに完成したのである。

先に「コシヒカリ」という「銘柄」の祖先は「陸羽132号」という「品種」と書いた。同様に「蓬莱米」という「銘柄」のルーツは「台中六十五号」という「品種」である。が、その誕生前に「蓬莱米」の命名が「中村」などの内地米に対してなされていた。つまり、台湾産ジャポニカ米の「銘柄」そのものが「蓬莱米」という訳である。

なお「蓬莱米」については、早川友久氏の「磯末吉と末永仁―蓬莱米を作り上げた農学者―」(『日本人、台湾を開く』まとか出版、2013年1月刊)を参考文献とした。