論文は、在来米の改良に対する問題点を指摘すると同時に、内地米普及の可能性にも言及していた。このことから判るように、コメの改良を台湾の在来米(インディカ種)で行うか、それともジャポニカ種の内地米で行うかが、10年来の議論になっていたのである。

在来米は、赤米や烏米(育成不良で変色した米)などによる歩留まり落ちを考慮しても内地米に比べて3割方収量が多く、価格面で本島人に向いていた一方、食味が日本人に合わず、輸出しても内地三等米の半値だった。が、慣れない内地米の試作に台湾農家が度々失敗していたため、総督府は在来米の改良を主とし、内地米の改良を従としたのだった。

ところが、14年の第二回「展覧会」でも「内地種が台湾での裁判に適しており、将来普及すべき」とする末永の論文2本が、335本の中から一等に選ばれた。その審査員の中に、翌15年台中農事試験場に技師として転勤することになる磯がいた。二人がついにお顔を合わせたのである。

磯は、当初1千種を超えていた在来種の多くが選別・淘汰されつつあったものの、未だ内地米に匹敵する品質に至らなかったため、稲作に適した気候や土壌を有する、そして末永の居る嘉義に近い台中行きを志願したのだった。その年の暮れ、末永も磯の下に異動した。

磯が先ず手掛けたのは在来種の系統を分離して、「純系育種」を作ることだった。それまで品種改良されて来た品種は須らく数十の品種の混合であったため、優良育種の系統のみを選んで品種改良の原種にしようと考えたのだ。

台中でも末永の姿は、朝から晩まで田圃にあり、また実験台にあった。3年が経ち、彼が弱冠32歳で主任技師になる18年頃には、在来米の改良に大きな進展がみられた。在来米の純系育種と内地米を掛け合わせることで、在来米の品質と生産性を向上させる段階に入っていた。

そうした19年5月、磯は1年半の欧州留学を命じられる。これまで細々と行われていた内地米の試験栽培でも良い結果が出始めた頃で、九州の「中村」などの品種が好成績を上げつつあった。磯の留守を任された末永は、この時、内地米にとって非常に大きな発見をする。