平助は、松前出身の弟子・前田元丹(玄丹)を通じて源左衛門と知り合った。元丹は松前で育ち、平助の名声を聞いて、紹介状も持たずに飛び込みで弟子入りした人物である(『むかしばなし』)。源左衛門の情報は、平助が蝦夷地の交易やロシア人の活動の実態を把握するのに役立った。
さらに訴訟に長けた平助は、松前藩の訴訟処理に関わる松前藩の用人からしばしば相談を受けており(『むかしばなし』)、松前藩の内情や蝦夷地の交易事情、ロシアの南下の様子について詳しい情報を得ていたと考えられる。
5. 結論
工藤平助は蘭学者の協力の下、蘭書によってロシアの歴史や地理を把握し、松前藩関係者から蝦夷地の交易実態や松前藩による管理の不備に関する情報を得た。そして、これらの情報を『赤蝦夷風説考』という著作に統合し、蝦夷地の開拓やロシアとの交易の重要性を論じた。この情報収集の過程は、平助の広範な人脈に支えられており、彼の経世家としての能力を象徴している。
ただし、蝦夷地情報に関して、松前藩に恨みを持つ湊源左衛門に専ら依拠した点は弱点と言える。情報源の偏りは否めない。この点は幕府も同様で、田沼意次の蝦夷地開発計画も、現地情報を湊源左衛門に依存する形で開始した。したがって現地の実態を正確に把握するため、蝦夷地に調査隊を派遣する必要があった。次回は天明の蝦夷地調査について紹介したい。