平助がロシア情報を得る上で最も重要な役割を果たしたのは、長崎のオランダ通詞である吉雄耕牛(幸作、幸左衛門、1717-1794)との交流である。

耕牛は、長崎出島のオランダ商館長(カピタン)が江戸に参府する際に随行する通事として活躍し、蘭学の知識を日本に広めた第一人者であった。耕牛が江戸に来ると、平賀源内、杉田玄白、前野良沢らは耕牛の宿舎を訪れ、西洋知識の摂取に勤しんだ。平助もまた耕牛と親密な関係を築き、耕牛の弟子3人が平助の門下に入るほどであった(只野真葛『むかしばなし』)。前回紹介したように、耕牛は顔の広い平助を介してヨーロッパ商品を江戸で売りさばいていた。

平助は耕牛を通じて、オランダから伝わった貴重な蘭書を入手した。特に、『赤蝦夷風説考』の執筆に直接影響を与えたのは、以下の2つの蘭書である。

◎『ゼオガラヒー(Geographie)』:ドイツ人のヨハン・ヒューブネル(Johan Hubner、1668-1732)が著述した地理書のオランダ語訳で、明和8年(1771)に本木良永と松村元綱によって『阿蘭陀地圖略説』として翻訳されていた。

◎『ベシケレイヒング・ハン・ルュスランド(Beschrijving van Rusland)』:ヤコブ・ブルーデルが編纂し、1744年にヨハン・ブルーデルによって出版されたロシアの歴史・地誌に関する蘭書。安永7年(1778)にオランダ商館長のフィート(Arend Willem Feith)が日本に持ち込んだこの書を耕牛が翻訳した。それを買い上げた福知山藩主の朽木昌綱は前野良沢に下賜したと言われる。

これらの蘭書は、平助がロシアの歴史や地理、カムチャツカや千島列島の状況を理解する上で重要な資料となった。特に『ベシケレイヒング・ハン・ルュスランド』は、ロシアの東方進出の歴史や交易の詳細を記述しており、平助がロシアの南下政策や蝦夷地との関わりを論じる際の主要な情報源となった。