ただし、平助はオランダ語を読めなかったので、「鴻学の士」の翻訳に基づいて両書を読んだという(『赤蝦夷風説考』下巻)。この「鴻学の士」とは耕牛の他、蘭学者の桂川甫周・大槻玄沢らであったと考えられている。
3. ベニョフスキー情報の影響
さて平助がロシア情報に強い関心を抱くきっかけとなったのは、明和8年(1771)にモーリッツ・ベニョフスキー(Maurycy Beniowski)が日本に伝えた情報である。
ベニョフスキーはハンガリー出身の軍人で、ロシアに捕らえられていた。彼はカムチャツカに流刑されていたが、仲間とともに脱出し、ヨーロッパに向かう途中で奄美大島に寄港した際、長崎のオランダ商館長を通じてロシアの蝦夷地侵略計画を書簡で幕府に伝えた。この情報は幕府によって無視されたが、吉雄耕牛をはじめとする通詞や蘭学者の間で広まり、平助も耕牛を通じてこの情報を入手したと考えられる。
平助はこのベニョフスキー書簡によってロシアに対する関心をかき立てられ、やがてロシアとの交易の可能性や蝦夷地の開拓の重要性を説くに至るのである。
4. 松前藩関係者からの情報入手
平助が蝦夷地情報を得る上で重要な役割を果たしたのは、元松前藩勘定奉行の湊源左衛門である。源左衛門はその経歴ゆえに、松前藩の内情や蝦夷地の交易事情に精通していた。
源左衛門は、豪商飛騨屋のアイヌ交易におけるトラブルに巻き込まれて松前藩を追放されており、松前藩を恨んでいた。源左衛門は、大坂に蝦夷錦などの蝦夷地の物産が豊富にあり、それどころか蝦夷地の詳しい地図まで流通していることに驚き、その地図を入手しようとしたが失敗したというエピソードを、田沼派の幕府勘定組頭である土山宗次郎に語っている。
源左衛門の情報によれば、蝦夷地では「おろしや」(ロシア)や他の異国人との交易が行われており、莫大な利益を上げていたが、松前藩の管理が不十分で、諸国の商人が内々に参入し、抜荷(密貿易)が行われていた(内閣文庫「蝦夷地一件」)。