物語を「語れること」というハードルを課すかわりに、参入自由で開かれた社会がアメリカなら、ネイティヴなら沈黙のままでOKな分、「余計なことは言うな」とされる国が日本である。どちらがマシかは、永遠の難題だ。
有名な東畑さんの主著の二分法でいうと、アメリカは「セラピーだけ社会」で、日本が「ケアだけ社会」みたいなものだ。患者が回復するには、人生のゴールに向かって語るセラピーが有効だが、しかしそれを始めるには、居るだけでいい安心の場所としてのケアが要る。
まずケアがあり、その後でセラピー、がいちばんいいのだが、なぜか両者は二者択一のように見られがちだ。セラピーには「語りきった=治った!」というAchievement(達成・実績)があるが、ケアにはなく、かつ求めないことが望ましい。
江藤ほど自意識が強く、名誉欲の塊だった著者もまず見ないが、そんな彼でも敗戦の傷を越えて語るためには、一緒に沈黙したままで居られるパートナーが必要だった。批評家ですらなにも書かないnon-Achievementな居場所があって初めて、競争社会に適応しうる。
カウンセリングの利用者が絶えないように、社会をナラティヴでセラピーする歴史は、いまも必要なのかもしれない。だがその手前で、「歴史なし」で沈黙する人とも、一緒に過ごすケアが要る。
過去を語らなくても・多様なままで・居られる場所があってこそ、他者と理解しあう方法としての歴史は甦える。SNSでジッショー! とマウントを取る歴史学者ほど、逆に歴史をダメにしてきた理由もそこにある。