『戦略と外交』202、216-217ページ
ケネディ氏によれば、「『宥和』の伝統は、もともと否定的ではなく肯定的な概念だった」のです(前掲書、215ページ)。この評価を逆転させてしまったのが、「ミュンヘン宥和」と第二次世界大戦でした。イギリス外交において1939年まで、宥和は好ましい政策として活用されていたのです。
宥和政策を正しく理解する
それでは、ここでいう「宥和」とは、どのようなものなのでしょうか。かれは、このように定義しています。
「『宥和』は、「不満を合理的な交渉と妥協を通して、認めたり満たしたりすることによる国際紛争を解決する手段であり、したがって、費用が高く血まみれになり、場合によってはたいへん危険な武力衝突に頼ることを防ぐ政策を意味する」
前掲書、15-16ページ
そして、これは「国益としての平和」として、1930年代まで、イギリスの全般的な戦略を構築していました。もちろん、こうした戦略がイギリスで無批判だったわけではありません。「左派」や「理想主義者」は、ヨーロッパ大陸における紛争に巻き込まれることを忌避していました。
他方、「右派」や「リアリスト」は、宥和が、その前提に永久的な調和という考えを置くユートピア主義であり、国家の弱みを見せる政策だと批判していました(前掲書、19-21ページ)。
こうした宥和政策への批判があるにもかかわらず、19世紀後半から20世紀の前半頃まで、イギリスが宥和を基調とする戦略をとってきたのには、わけがありました。
第1は国内要因です。イギリスの政治家は、国民からの福祉への高まる要求に応えなければなりませんでした。教育、貧困、保険、年金などを手厚く提供するということです。その結果、かれらは古典的な「大砲(軍備)かバター(福祉)か」のトレードオフに対処しなければなりませんでした。
第2はイギリスの国力の衰退です。この時期にイギリスは、産業や通商、植民地、海軍と軍事一般において、世界的なポジションを相対的に悪化させていたのです。