量子の世界で「情報を消す」ということは具体的にどんな現象で、どのようにエネルギーが失われているのでしょうか?
この謎を解明するため研究者たちはまず、極低温に冷却したルビジウム原子の集団を閉じ込めて安定な「量子の雲」を作り上げました。
この原子の雲は、いわば目に見えない小さな粒子たちが互いに静かに調和を保っている状態です。
イメージ的には非常に静かで穏やかな湖の水面と言えるでしょう。
次に研究者たちは、雲の中で原子同士が交流しあう力を調整するために使われていたバリア(ポテンシャルバリア)を、ごく短時間のうちに一気に引き上げる操作を行いました。
この操作は専門用語で「グローバル質量クエンチ」と呼ばれ、原子同士がこれまで保っていた静かな均衡状態を意図的に大きく崩してしまう操作です。
たとえるなら、穏やかで静かな湖の水面に突然大きな石を投げ込んだようなものです。
この乱れが生じた後、研究者たちは系全体の一部を情報が存在する「量子システム」、それ以外を「環境」と定義し、それらの間で情報とエネルギーがどのようにやり取りされているかを詳細に調べました。
波立っている湖の枠で囲まれた部分を特別な場所として指定し、この領域の原子たちがもっていた情報やエネルギーがどう枠の外に出ていくかを観察したのです。
すると、驚くべき結果が観測されました。
量子システムが環境と接触し相互作用することで、それまでシステムが持っていた情報は徐々に環境へと移って失われ、同時にエネルギーが逃げていく現象が初めてはっきりと実験で捉えられたのです。
枠内の原子たちが持つ情報とは?
「原子が情報を持っている」というのは、日常生活の感覚からすると奇妙に思えるかもしれません。しかし、量子の世界では、「情報」というのは原子や粒子がどのように配置され、どのような動きをしているかという「状態の特徴」のことを指しています。例えば、枠で囲まれた小さな領域の中を飛び交う原子を考えてみましょう。もし、この原子たちが完全に規則正しく整列し、すべての粒子が同じように振動していたら、そこには非常に少ない情報しか含まれていません。なぜなら、どの原子を見ても、同じ配置・同じ動きをしているため、新たに得られる情報はほとんどないからです。ところが、ポテンシャルバリアの急激な変化(乱れ)が起こると、原子の動きや配置は不規則で複雑になり、各原子はそれぞれ独自の状態を持つようになります。つまり、この乱れた状態では、「どの原子がどの位置にいて、どのような速度で動いているか」という情報が増え、非常に多くの情報が系に存在する状態となるのです。実験で「情報が消える」というのは、こうして複雑で乱れた状態にあった原子たちが環境と相互作用するうちに、次第にその独自性や特徴を失っていき、最終的には環境側とほとんど区別できない状態に落ち着くことを意味します。このとき、もともと系が持っていた「どの原子がどう動いているか」といった詳細な情報が失われてしまうのです。