この原理に従えば、27℃の室温で1ビットの情報を消去するには、情報を記録している物体から最低でも2.87×10⁻²¹ Jのエネルギーが環境に放出されなければならない計算になります。

これは非常に小さいため、日常生活では意識することもありませんが、コンピュータ上であれ量子系であれ、情報の消去(忘却)は物理的なエネルギー変化を伴う過程であることを示しています。

しかし「情報を消去する」とは物理的に具体的にはどういう現象なのでしょうか?

従来、このランダウアーの原理は主に従来型の計算機や比較的単純な物理実験において検証されてきました。

たとえばナノサイズの磁気メモリや単一原子のレベルのメモリを使用した実験では、確かに、情報1ビットを消去する際に理論が予測する通りのエネルギーが熱として観測されることが示されてきました。

しかし、量子コンピュータのような複雑な量子多体系になると、単純な実験で確かめるのは容易ではありません。

複数の量子粒子が絡み合い、環境との相互作用も複雑化するため、「情報を消去する」という操作が具体的にどういう現象なのかを捉えること自体が難しくなります。

そこで研究チームは今回、この謎めいた量子世界に焦点を当て、量子多体系で情報を消去した時に起こる現象の正体を突き止めることを目指しました。

果たして、量子世界における「情報の消去」とは具体的にどのような物理現象なのでしょうか?

「情報」を消すとエネルギーが逃げる

「情報」を消すとエネルギーが逃げる
「情報」を消すとエネルギーが逃げる / FIG 1は、研究チームが行った実験の一連の流れを視覚的に示した図です。図の(a)では、二本の細長い雲のようなものが描かれています。これは実際には非常に低温に冷却されたルビジウムという原子の集まり(原子の雲)を模式的に表しています。最初、二つの原子の雲は強いトンネル結合(トンネルカップリング)によって互いに強く結びついた状態にあり、原子が自由に行き来できるようになっています。この状態は「質量のあるクライン・ゴルドンモデル」と呼ばれる特殊な物理モデルに対応していて、原子同士が安定した状態で互いに影響し合っています。その後、実験では原子雲の間にあった「壁」(ポテンシャルバリア)を急激に高く引き上げ、二つの雲を完全に分離します。この突然の変化は「グローバル質量クエンチ」と呼ばれます。壁が急に高くなることで、二つの雲は互いに独立して進化を始め、それまで質量のある状態だった系が質量のない状態へと一気に変化し、時間とともにそれぞれ独立して進化を開始します。
図の(b)は、この分離操作を行った後、原子の雲を自由に膨張させて、その相互作用の結果生じる「干渉パターン」を観察した様子です。干渉パターンとは波が重なった時に現れる縞模様のことで、実際の実験では原子の密度が濃い部分と薄い部分が縞状に交互に現れるように観察されます。この模様を通じて二つの雲の間に存在する相対位相を詳細に計測し、その情報を後の解析に利用します。
図の(c)には、この干渉パターンを解析する方法が示されています。研究者は観察された模様を使って、原子の位置ごとの位相の関連性(相関)を計算し、「共分散行列」と呼ばれる数学的な図表を作成します。この行列は色で表現されており、各点の相関の強さを示しています。この共分散行列を利用することで、系(原子雲の一部)と環境(残りの部分)を明確に区別し、それらの間でどのように情報やエネルギーの交換が行われるのか、量子情報理論的な指標(相互情報量やエントロピー変化)を具体的に計算できるようになります。/Credit:Experimentally probing Landauer’s principle in the quantum many-body regime