で、子規は「そんな犠牲はやむを得ない。俺たちは過去の常識に囚われないNew Normalに進むんだ!」と、AI加速主義みたいな答えを虚子に返したわけですが、江藤はこれを評していわく、

子規はいうまでもなく、偶像破壊的な革新家として極論しようとしていた。これに対して虚子は、この偶像破壊的革新家の、イデオローグとしての一面を衝いたのである。

同書、30頁

はい。そういうことです。俺は客観に徹して「空想を排している!」と主張する人ほど、人間が完全な客観に立てるとする空想に溺れていて、まぁ子規の場合はイデオローグとして「わかった上で」やってたんですけど、それをベタに信じちゃうと痛い目を見るわけです。

こちらの記事以来の登場。信じたら大変なことになります

実は私、安直なAI未来主義を批判する上で、1950年に三島由紀夫が書いた『青の時代』をヒントにしたことがあります(『危機のいま古典をよむ』にも再録)。……なんだけど江藤さんの場合は、そこからさらに半世紀前の明治の挿話から、いまを考える手がかりになることを、抜粋して書き残しちゃうんだから、すごいですよね。

ここに、AI時代こそ必要になる「本物の人文知」があります。逆に、俺も研究にIT使ってるとか、AIで昔の写真に色塗ってもらえばレキシガクも最先端に絡める! みたいなニセモノの人文知は、誰も必要としません(笑)。

ホンモノの人文学は、時代の潮流を根底から疑うことで輝く。ニセモノの人文学は、折々のバズワードをつなげるだけだから、今後は生成AIに代わってもらえば、リストラで別にいい。