名所旧蹟は一半の美はその山水即ち写生的趣味の上にあるが、一半の美は歴史的連想即ち空想的趣味の上にある。……全く空想的趣味を除き去るという事は花の一半の美を削ぎ去るもので、また名所旧蹟から歴史的連想を除去するのと何の異るところもない、というような事を繰りかえして論じた。

しかし子規子の結論はこうであった。「それは仕方がない。写生趣味の上に立脚する以上は、自然の結果として空想趣味を排斥せねばならぬようになる。一方では甚だ殺風景な感じがするが、その代り一方ではまだ古人の知らぬ新たらしい趣味を見出す事が出来るではないか。」しかし当時、余はこの論にどこまでも不平であった。

江藤淳『リアリズムの源流』28-9頁 強調と段落を改めたほか、 一部漢字をかなに開き、句読点を付与

師匠の子規は、自然科学のように「客観的」に見たものを写しとるのが写生であって、夕顔の花を見た際に「あぁ、『源氏物語』の夕顔を連想するなぁ」といった人文的な教養はこの際捨てろ、と言っている。そうすることで初めて、新しい時代にふさわしい表現が生まれる、というわけ。

対して虚子は、先生はまちがっている、歴史的な遺跡では風景のみでなく、過去にそこで起きた物事も含めて味わうように、人間として夕顔の花を見たときに自ずと湧く主観的な連想を捨てたら、俳句の表現は貧しくなる、と反論する。

まさに、人間でなくAIに観察させた方が「ファクトベースで公平な結論が出るんじゃないすかぁ?」と、いやいや、そんなうまく行くはずないだろ。これまで大事にしてきた価値観を失って、ふつうの人にとっては生きづらい社会になるだけだ、な今日の議論と同じですよね。構図としては。