この発言と現在の状況を重ねるとき、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』が鮮やかに蘇ってくる。「すべての動物は平等だが、ある動物はより平等である」という逆説的な文言が、「すべての言論は自由だが、ある言論はより自由である」という現代の空気に重なる。

これは、表現の自由が形式的には存在していても、実質的には限られた範囲の“許された言論”だけが可視化され、その他は沈黙させられるという新たな検閲構造を意味している。

気候変動問題を否定するつもりはない。だがその科学的議論が、異論排除と政治的圧力のもとで狭められていくことは、健全な民主主義にとって深刻な危機である。

環境省やマスメディア、国際機関が率先して対話の多様性と検証の自由を守る姿勢をとらなければ、やがて信頼そのものが崩壊してしまう。社会の信頼は、単に“正しそうな情報”の供給によって築かれるのではなく、その情報が自由に批判され、吟味されるプロセスを通じてこそ維持されるのである。

おわりに

われわれ市民は、「誰が語る科学なのか?」「どの情報が選ばれ、どの情報が排除されているのか?」という問いを手放してはならない。

科学の名を借りた“正しさ”は、時に最も巧妙な支配装置となる。市民一人ひとりが情報を主体的に捉え、疑問を持ち続けること。それこそが、健全な公共圏を守る最後の砦なのである。