しかし荒木さんは、それはむしろ(悪い意味で)アーレントの立場であり、ロールズが被せる「無知のヴェール」の内部では個性のリセットではなくて、色んな仮想の人生のシミュレーションが起きていると考える。
それはちょうど、世の中がどんな場所かを十分に知る前に、手あたり次第にフィクション作品を楽しむことで人生のモデルを見つけてゆく体験に近い。荒木さんの本業が「江藤と加藤」と同じく、文芸評論であるがゆえの提言だと思う。

同じ本を「違って読める」ときにだけ、その人は自由である|與那覇潤の論説Bistro
発売中の『文學界』7月号で、上野千鶴子さんと対談した。タイトルは、ずばり「江藤淳、加藤典洋、そしてフェミニズム」。ネットでも2つ、PR用の抜粋が出ている(もう1つのリンクは後で)。
「歴史なき時代における『成熟』とは何か?」 與那覇潤と上野千鶴子の白熱対論 | 文春オンライン 戦後を代表する文芸評論家、江藤...
「歴史なき時代における『成熟』とは何か?」 與那覇潤と上野千鶴子の白熱対論 | 文春オンライン 戦後を代表する文芸評論家、江藤...
こうして見たとき、米国の「三重人格」では①のラストベルト派だけが、そうしたセンスを持っていることに気づく。代表するJ.D.ヴァンスがまだ無名の頃から、自伝文学をベストセラーにして政財界に足がかりを作ったのは、偶然ではない。
③のポリコレ派には人文学者も多いが、彼らは政治的な「正解」が社会にあると確信しているので、小説の読み方にも多様性がなく、つまり実は文学的でない。②のシリコンバレー派は、「文系なんてムダ」論者の巣窟みたいなもので、データ化されない個々のユーザーの人生に関心はない。
荒木さんの本にも、近日はテクノ・リバタリアンと呼ばれる「功利的な全体主義」(統治功利主義)への批判があるが、哲学者の千葉雅也さんとも2021年の秋に、重なる議論をしたことがある。