どうしたらいいのだろう。仕事で読んでいた、荒木優太さんの『無責任の新体系』(2019年)に、滋味のある手がかりを見つけた。

文献横断的な哲学エッセイである同書は、「敗戦後論」をめぐる論争からアーレント(ヘッダー右)の読み方を問いなおし、欠点を埋めるヒントをロールズ(左)に求める。その読解は、教科書的な要約とは異なる分、いまアクチュアルだ。

無責任の新体系
――きみはウーティスと言わねばならない 荒木優太 著 四六判上製 216頁 定価:1,980円(本体1,800円) 978-4-7949-7076-3 C0095 〔2019年2月〕 若者は、社会から同時に押しつけられる「責任論」とどう対峙すべきなのか? 自由に生きる道はあるのだろうか? 日本社会における匿名性...

人生は具体的なものだ。言い換えれば、個々別々であり、それぞれが容易に一般化できない経験の厚みをそなえている。そういった特異な人生の群れに対して普遍的に妥当しうる正義の原理を構想するには、全知の神の化身のようなモデルに頼るのではなく、非力ゆえに傾き偏る多様な人生の物語をテストする必要がある。 (中 略) アレント的注視者はパート的なものを否定するために全体を見渡す神の視線に限りなく近くなる。が、ロールズの当事者はパート的なものの集合体、いわば部分の仮体験を繰り返すことで全体に接近する。

181頁(強調は引用者)

ロールズの思想として知られる「無知のヴェール」は、被れば誰もがいちばん中立で平等な正解を見つけられる、魔法のブラックボックスのようにイメージされがちだ。「自分は何者か?」についていったん無知になることで、たとえ何者であっても、そこそこ暮らせる社会の構想に同意できる。

俺は男だ、白人だ、プロテスタントだ、富裕層だ……みたいな個性を削ぎ落し、完全にニュートラルな視点に立ってみれば、もし自分が「貧困層でムスリムのアラブ系女性」だったとしても、生きていける社会がやっぱいいなと思うはずでしょ?――というのが、通説的なイメージだ。