歴史の「専門家」として(笑)、かつての戦争の実例からお教えしよう。日中戦争下での議会と軍部の衝突の極点である、斎藤隆夫の 〈反軍演説〉 事件が起きたのは、1940年の2月だった。

ヘンなカッコをわざとつけたのは、今日の研究では斎藤議員(ヘッダー写真)の発言内容は、実は戦争に反対するものではなかったとされているからだ。優れた概説書から、引いてみよう。

一般には「反軍」演説として知られている。しかし斎藤の立場はべつだん反軍でも反戦でもない。……重要なのは、斎藤演説が「支那事変」の性格を浮き彫りにしていることである。

演説の内容を見てみよう。斎藤は第一に、近衛声明の五つの要点、すなわち①主権尊重、②無賠償無併合、③経済開発を独占しない、④第三国の権益制限を要求しない、⑤占領地域からの撤兵という内容を、政府はそのまま実行するのか、実行して日本に何が残るのかと批判する。

斎藤によれば、国際社会の現実は道理の競争でなく徹頭徹尾力の競争であり、そのような現実に対して、道義に基づく国際正義に立って東洋永遠の平和のために戦うという戦争が、成り立ち得るのかということになる。 (中 略) そしてこれらの疑問の背景に、多大の犠牲を払っている国民が、それで納得するのかという批判の観点が貫かれていた。

有馬学『帝国の昭和』単行本版、224-5頁 (段落を改変し、強調を付与。 ①等の数字も引用者が挿入)

要するに、政府は日中戦争を「聖戦」として美化し、こんなに立派な大義のためにやっているみたいな話ばかりするが、「それで勝てるんすか、なんか得になることあるんすか?」とツッコミを入れたのが、斎藤演説だったのだ。その意味では反軍というより、〈不謹慎演説〉である。

当時は米内光政内閣だが、議場ではこの演説は必ずしも不評ではなかったらしい。なにを参照するかで違うようだが、Wikipediaから引っ張ると、

勝田龍夫『重臣たちの昭和史』では、演説直後、陸軍大臣の畑俊六は「なかなかうまいことを言うもんだな」と感心していたという。また政府委員として聞いていた武藤〔章。軍務局長〕や鈴木貞一(興亜院政務部長)も「斎藤ならあれぐらいのことは言うだろう」と顔を見合わせて苦笑していた、と書かれている。