私が卒論を書き終え、九大社会学研究室を卒業する直前の1972年2月2日に高田保馬はその88年の生涯を閉じた。その告別式の模様は清水幾太郎「或る告別式」(『図書』岩波書店1972年3月号、『高田保馬博士の生涯と学説』創文社 1981年に再録)で知ることができる。愛惜の気持ちが伝わる清水のこの文章を何度読んだか分からないが、「著書と一緒に著者も忘れられてしまっている」という結論は衝撃であった。

『社会学概論』に出会う

唯一の救いは、「忘れられていた」かもしれないが、1971年に『社会学概論』(2003年に復刻した)が富永先生の詳細な解説論文付きで新しく出版されたばかりであったことである。

71年は学部4年であったが、私はその富永解説論文と卒業前に清水の追悼文を読むことで高田理論に関心をもち始めた。この時期から福岡市や久留米市などの古本屋回りが始まる。なぜなら、100冊を超える高田保馬の本は全集や選集にまとめられてはおらず、古本屋か大学図書館でしか入手できなかったからである。

大学院では水面下で高田への関心を持続

ただ大学院では都市社会学を専攻したので、集めはじめた高田本はツンドクでしかなかった。しかし『高田保馬リカバリー』序文で記したように、1975年に「高田先生の生家」というエッセイを鈴木広先生がお書きになったあとに、「生家」を訪ねたりして、人間高田への興味は抱き続けていた。

生誕100年目の「光彩放つ高田保馬の業績」

それは社会学と経済学の門下生一同が出された『高田保馬博士の生涯と学説』(1981)で頂点に達する。

さらに83年5月28日の『日本経済新聞』で建元正弘阪大教授が書かれた「光彩放つ高田保馬の業績」で関心が増幅された。この年は生誕100年であったが、日本社会学会でも出版界でもとくに何も行なわれなかった。

社会学者の大半は高田作品を読まず、触れず、語らずであった。たまに語るときには、40年前の戦時中の言説のみを針小棒大に取り上げて論難するというパターンが出来上がっていた。

『社会学評論』の特集と学会大会シンポジウム