たとえば高知城は本丸御殿を「懐徳館」、天守を「咸臨閣」と改称し、敷地を整備して公園化しました。
二の丸などの建物は入札で払い下げられて壊されたものの、天守と追手門は保存され、高知城は城跡公園として城郭の景観を色濃く残すことになったのです。

また現在は国宝として知られている犬山城(愛知県犬山市)も、地元の村が主導して、城の敷地を公園化することで生き延びました。
幕末以来の城郭景観を生かし、天守を公開して見物料を取り、観光地化を図ったのです。
しかし1891年(明治24年)の濃尾地震によって天守が大破すると、県は財政難を理由に自力での復旧を断念し、かつての犬山藩主である成瀬正肥(なるせまさみつ)に払い下げました。
なお城の修復が払い下げの条件として課されており、その後成瀬らによって犬山城は修復されたのです。

同じく国宝として知られている松本城(長野県松本市)の天守も競売にかけられたものの、地元の有力者が買い戻したことにより、何とか解体を免れました。
なお有力者たちは資金を集めるために一旦競売の延期を申請した上で天守を借りて博覧会を開き、そこでの利益を使って天守を買い戻したのです。
しかし明治30年代頃から天守が大きく傾くようになり、地元の有志らによって「松本天守閣天主保存会」が設立され、修理費の寄付が呼びかけられました。
その甲斐あって1903年(明治36年)より城の修理が始まり、松本城は難を逃れたのです。
一方、明石城(兵庫県明石市)では1881年(明治14年)、兵庫県が櫓を小学校建設用材として取り壊そうとしたため、500名を超える士族が籠城を示唆して抵抗する動きがありました。