一方戊辰戦争によって被害を受けた城の中には、復旧困難と判断され廃棄された城も多かったです。

たとえば、会津若松城(福島県会津若松市)や盛岡城(岩手県盛岡市)などは戦禍で損壊したまま放置され、老朽化を理由に解体された例があります。

こうして存城となった城は軍事施設へと転換され、旧来の城郭景観は急速に変容しました。

最終的に、廃却や買い上げ、要塞化の名の下で破却が進められ、その多くは現在に残る壮麗な城の姿を失ったのです。

元藩主に譲渡された犬山城、地元住民の尽力で守り抜いた松本城

犬山城、先述した彦根城と同じく元藩主の手に戻った数少ない城である
犬山城、先述した彦根城と同じく元藩主の手に戻った数少ない城である / credit:wikimedia commons

一方廃城となった城は、まず大蔵省の管轄下で詳細な調査が行われました。

大蔵省は各府県に城郭・陣屋といった建物から樹木や土木に至るまで面積を報告するよう命じたのです。

さらに城の中にある建物や樹木について「相当の代価」を調べ、提出させました。

その後これらの城は、競売にかけられたり他の施設に作り替えられたりします。

たとえば佐賀城(佐賀県佐賀市)や府内城(大分県大分市)などは城の中の建物が行政庁舎として使われました。

変わった例としては三原城(広島県三原市)があり、海軍省が提督府設置を目指し、城の一部を買収しました

しかし最終的に鎮守府は呉に置かれることとなり、三原城は実質的に廃城のまま解体されることとなったのです。

なお三原城の城跡はその後、山陽鉄道(現在のJR西日本の前身)の駅の用地として転用されました。

さらに廃城を教育施設として再利用する動きも見られました。

学制公布後、廃城を学校の敷地に転用する動きが進み、旧陣屋や城跡に多くの学校が開校されたのです。

日出城(ひじじょう)(大分県日出町)では本丸御殿が小学校として利用され、櫓も教室に転用されました。

その中でも多かったのは、城跡を公園として整備する動きです。