なお、私なりの社会学における史観には、これらに加えて、高度な情報機器の普及と莫大な情報量が伴った情報化を変動因とした情報史観、環境破壊や再生など環境重視を軸とした環境史観を想定してきた(図1)。これらについては、いずれ該当する書籍の際に詳述する予定である注2)。

図1 社会学における5つの史観 (出典)金子、2013:51.
『経済学批判』における「人間」の位置づけ
高田が批判したマルクスは、『資本論』に先立つ『経済学批判』(1859=1934)の「序言」で「人間」を次のように位置づけている。「人間は、その生活の社会的生産において、一定の必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している」(同上:13)。
さらに、「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する」(同上:13)とした。
「経済決定論」の排除
このような人間と社会の理解に対して、高田は、下部構造としての経済が上部構造の政治、制度、文化、人間の精神をすべて規定するというマルクス主義の公式モデルを「経済決定論」として排除した。逆に、図2のように「土台」を入れ替え、上部構造に政治、法律、制度、精神とともに経済までも含めた。そして土台としての「社会の量質的組立」は人口の量と質であり、その上に社会関係が位置づけられた。

図2 高田保馬の人口史観 (出典)金子、2003:36.
これは、マルクス批判を根底にもつ「人口史観」として体系化されたが、現代の「少子化する高齢社会」における「人口減少時代」にも有効な理論と考えられる。