最大の疑問の1つは、パワーという物質的要因が政治指導者の心理や認知にどのような影響を及ぼしているのかが、個人レベルの生物学的解析や心理学的分析のみでは分からないことです。

たとえば、ミュンヘン危機において、ドイツは再軍備の途上にあり、相対的な軍事バランスが必ずしも優勢ではなく、戦争で勝てる見込みが薄かったことが、ヒトラーをはじめとする指導者に開戦を思いとどまらせたとされています(なお、ミュンヘン危機におけるドイツの政策決定については、いくつかの歴史解釈がありますが、ここでは、それに触れないことにします)。

ジョンソン氏自身が著書で認めているように、この時、ヒトラーは「合理的に」行動したということです。そうだとすれば、このことはシンプルな合理的選択理論で説明できそうです。この事象が合理的選択の「逸脱事例」ではなく、このロジックで簡潔に説明できるのであれば、わざわざ追加の個人の心理バイアスという変数を理論に追加して、説明を複雑にする必要はないでしょう。

第一次世界大戦の勃発も、当時の列強に配分されたパワー構造と無関係ではなさそうです。ドイツは、ロシアの軍事動員がなくても、あるいは独露間の予想されるパワー・バランスの変化がなくても、上記の心理バイアスに影響されて、戦争を行っただろうと反実仮想できるでしょうか。

キューバ危機における米ソの指導者の慎慮ある行動は、核戦争への恐怖が政治指導者の行動を慎重にした「核革命」と、はたして無縁なのでしょうか。

近年の国際関係論では、外部要因が個人とりわけ政治指導者に与える影響を分析する「逆第一イメージ論」の研究が台頭しています。これは個人が国際関係に与える影響ではなく、国際関係が個人に与える影響を明らかにしようとするものです。

戦争原因の説明において、個人レベルの心理バイアスが独立変数(原因)として戦争という従属変数(結果)に及ぼす因果効果は無視できないでしょうが、パワーといった外部の物質的要因と心理バイアスという個人の非物質的要因の関係を明らかにすることは、依然、重要な研究課題として残されているように思います。