2019年だと思うが、『永続敗戦論』の白井聡さんと話していて、「加藤典洋は『敗戦後論』を、北岡伸一に読ませたくて書いたのでは」なる噂を聞いたことがある。もちろんあくまで憶測で、白井氏にも確かな証拠があるわけではなさそうだった。
とはいえ、まったく無根拠というわけじゃない。『群像』の1995年1月号が初出の「敗戦後論」には、実際にこうした一節がある。
湾岸戦争のおりの分裂の様相として、日本も国際平和維持に寄与する米国主導の国連軍に合流する平和部隊(軍隊)をもつべきだとする小沢一郎、あるいは北岡伸一の ”現実主義” 的な「普通の国家」論と、……柄谷行人、あるいは浅田彰の観念的「ラディカルな平和主義」論の対立を該当させることもできる。
しかしここにあるのもわたしの考えからいえば、ジキル氏とハイド氏の分裂を本質とする、〔敗戦後の〕半世紀来の半身同士の対立なのである。
『敗戦後論』ちくま学芸文庫版、55-6頁 (段落を改変し、強調を付与)
ジキル氏とハイド氏とは、日本では護憲派も改憲派も「一貫した自己を保ちえない」ことを喩えて用いた、加藤の論考の核になる表現だ。護憲派は憲法が押しつけだった史実を、改憲派は壊滅的な敗戦という前提を、それぞれ見なかったことにして自分の立場を作っており、その自己は脆い。
しかもそう書いた後、加藤は小沢一郎やそのブレーン(『日本改造計画』の執筆者)だった北岡氏の「普通の国」論を、さらに追い討ちする。
「普通の国家」なる主張に進み出ているところに特徴的だが、この〔改憲して ”普通の” 軍隊を持とうという〕主張は国外を気にするその仕方において没理念的である。
「普通」などという普遍、理念は存在しない。こう主張しているのは、あくまで国内に向けられた内向きの自己でしかないのである。
同書、56頁
小沢=北岡は「国際的に通用する国になるために」軍隊を持とう、と、あたかも外向きな主張をするが、「ぼくらも ”普通の国” でありたい」などと言われて、そこに価値を見出せるのは日本人だけじゃないか。彼らもまた、日本国内でのみ「9条は世界に誇れる理想で…」と繰り返す護憲派と、実は大差ない、とする批判である。