周囲も新人が早期退職をしたり、退職代行を使われる実績ができることを恐れて、本人には何も指摘しない。これは戦略的な無視である。パワーバランスを利用した無視ならパワハラになるが、本人には簡単で市場価値の低い仕事を与えて、自分勝手に行動されてもチームが迷惑にならないようにする。

あくまで完全放置ではなく、指摘も改善提案もしない。本人もこの戦力外通告に気付かず、ワークライフバランスを謳歌することに満足するかもしれないが、広義の意味で存在を透明にされているのだ。そして徐々にキャリアが終わっていく。

行き過ぎた多様性は弱者を終わらせる

昨今、自由とか多様性という名のもとに、社会性を矯正しない社会へ足を踏み入れている。何でもそつなくこなせる人間なら、求められる行動を空気感で読み取り、社会性を獲得してモンスターにならずに済む。

だがそうでない人間はドンドン「お客様思考」になっていく。成長の機会を失い続け、年を取れば損をするのは本人だ。

何でもかんでも「人それぞれだから」「その人らしく」というのは考えものである。この言葉自体は間違いではないが、人間や社会のニーズは時代が変われど本質的な部分は同じで、そこからズレた生き方をすれば誰にも価値を感じてもらえなくなるだけだ。

別に個人の生き方はそれでいいが、仕事で価値がなければ働けなくなる。それなら早い段階で適切なフィードバックを受けて、軌道修正をすることは何より自分のためになる。

きりがない「傷ついた」に付き合いきれない

なぜ、現代社会は「指摘」をためらうようになったのか。その背景には、「自分は傷ついた!」という主張が、あたかも絶対的な権利であるかのようにまかり通るようになった風潮がある。しかし、この主張は本来おかしい。傷つくかどうかは、突き詰めれば個人の「選択」に過ぎないからだ。

心理学における認知行動療法では、「A(出来事)→B(解釈)→C(感情)」というモデルが提唱されている。出来事そのものが感情を直接引き起こすのではなく、その出来事をどう解釈するか(B)が感情(C)を決定するという考え方だ(もちろん、重度のメンタルヘルス疾患などは専門的治療が前提である。ここではそうした医療の必要性なケースを取り扱っていない)。