そして、このパン屋による「新しい窓の購入」は、ガラス屋の売り上げになります。

そのおかげで、ガラス屋は材料を購入し、従業員に賃金を支払うことができます。

もしかしたら、そのガラス屋の従業員たちの何人かは、パン屋のパンを買うかもしれません。

ガラス屋の従業員が、パン屋のパンを買うかも?

だから、この「破壊活動(窓が割れたこと)」は本当は悲劇ではなく、 地域経済やその他の人々に利益をもたらす出来事なのです\(^o^)/

・・・・・。

・・・・・。

・・・・本当にそうでしょうか?

残念ながら、これは実際には出来事の全てを伝えてはいません。

そもそも、もしパン屋の窓が割れなかったら、パン屋は窓とお金をそのまま持ち続けられたはずです。

「窓が割られてしまったせいで、新しい窓を買わざるを得なくなった」だけであり、窓が割られなければ、わざわざ新しい窓を買う必要はなかったのです。

パン屋は自分のお金を新しい窓の購入ではなく、店先に置く新しい看板の購入に使ったかもしれませんし、新しい制服を買うために使ったかもしれません。

それは看板屋やアパレル店の利益になっていたはずなのです。

つまり、この話の「ガラス屋の利益」は、本来ならばパン屋が購入したはずの、「看板屋やアパレル店の損失」を意味するのです。

残念ながら、窓の修理に使われたお金が本来どう使われたかを、もはや知ることはできません。看板に使ったのか、制服に使ったのか、他のなにかに使ったのかはわかりません。

その代わりに、私たちの「目に見える」のは、パン屋の「新しい窓」だけです。

ハズリットが述べたこの視点こそが「機会費用」です。

窓の修理に使われた費用とは、単に支払った価格だけではなく、そのお金で購入できたはずのその他のすべての商品やサービスを含むのです。

ハズリットは次のように述べました。

「悪い経済学者はすぐに目に見えるものしか見ません。良い経済学者はその先も見るのです」