ただ残念なことに、これらには詳しいエビデンスがなく、私は本書で森永少子化メリット論の限界についてもいくつか指摘しておいた(金子、1998:44-47)。
少子化メリット論の上滑り
どうして少子化メリット論が出てきたのかといえば、図2のような整理の仕方をする論者が多かったからである。
とりわけ結婚による「機会費用」の増加、子どもの出生後の「機会費用」の増加、育児の直接的経費の増大、子育て者の時間的・体力的な限界などが大きな「デメリット」として共有されて、逆に「子どもは生まない・育てない」が雑誌の特集にもなっていた。

図2 出生率の動向とその影響 (出典)金子、1998:51.
たとえば、朝日新聞が出していた『AERA』(1998年1月12日号)では、最終的には「論理的に考えたら子どもなんて持てなくなる」という結論まで掲載していた。
緊急の論点
メリット・デメリットではなく、まずは少子化対策とは何かを首相自らが公言する。そして少子化対策の社会目標を明示して、既存の数多くの少子化対策関連事業を精査する。
第二点としては、過去十年間の保育を最優先した「新旧エンゼルプラン」や仕事と家庭の「両立ライフ」支援を越えて、必要十分条件による網羅的な少子化対策に転換する。
少子化に関連する法律には「社会全体で子育てに取り組む」とわざわざ明記してあるのに、肝心の「社会全体」が定義されていない。私は、既婚未婚の区別もなく、子育てをしていてもしていなくても、30歳以上の「社会全体」構成員は次世代育成に一定の義務があるとみてきた。
国民に子育ての辛さを尋ねると、「経済的な負担の重さ」が最も多かった。この負担を社会全体で共有する制度をつくることが、「社会全体」からの取り組みの第一歩になる。それはちょうど介護保険と同じ理念である。
もちろん、子どもを生む、生まないは個人の自由である。しかし、次世代を育てる義務は誰にでもある。子育ての環境を向上させ、子どもが生まれやすく育てやすい社会システムを作らなければ、高額の医療制度を含む健康保険制度や年金制度などの「公共財」がいずれ壊れて、やがて「福祉国家」が成り立たなくなるからである。