「ラロック少将と核持ち込み」でググれば、NHK番組やウイキぺデイアなど、詳しい情報がすぐに出て来る。

1950〜60年代日本への核持ち込みを証言したラロック海軍少将筆者提供

米国政府は核兵器の所在について明言しない政策を取っており、日本国内に存在する可能性があるだけで、抑止力として機能しうる。こうした現実を踏まえれば、「持ち込ませない」原則の見直しは憲法違反ではなく、むしろ戦争を防ぐための現実的な対応となり得る。

何より重要なのは、日本が主権国家として、自国の安全保障について国民自らが主体的に議論し、決定することである。その結果が2%、3%などだ。最初に米国に言われて「数字ありき」では絶対にない。日本人が他人事で無関心、自ら防衛費増強を議論しないので、米側が強く言っているだけだ。

仮に最終的に「核は持たない」との結論に至ったとしても、それは尊重されるべき民主的意思決定の成果であり、国際社会に対しても説得力を持つ。しかし、その出発点となるべき「議論」すら封じられている現在の状況は、極めて深刻である。

議論そのものを忌避する姿勢こそ、最も有害であり、日本の国益を大きく損なうものだ。核保有の是非以前に、国家戦略について自由に思考し対話することこそが、平和と安全保障の基盤となる。核兵器の保有を最終的に否定するにしても、その議論が行われている事実自体が外交上のカードとなり、抑止力にもなる。

私はヒロシマの被爆二世として、また約40年にわたり米国を含む世界各国で核問題に関する現地取材を行ってきたジャーナリストとして、日本国内に根強い核への拒否感には深く共感している。同時に、被爆の実態を世界に伝え、再び核が使用される事態を防ぐ役割が日本にはある。唯一の被爆国として、倫理的責任を放棄すべきではないと強く思う。

しかしその一方で、日本の多くの国民が知らない現実もある。たとえば、オバマ政権が核抑止力の縮小を模索した際、日本政府は「米国の核抑止力が弱まれば、日本の安全保障が危うくなる」として、米議会や政府に対して強いロビー活動を行った。これは国際社会では広く知られた事実だが、日本では報じられることは少なく、政府も積極的に説明してこなかった。