とりわけ「有名な話だ」「こんな感じでしょ?」と、論じる対象を最初から既知のものだと侮ると、誰しも躓きがちだ。ぼく風にいうと、過去からのしっぺ返しであり、歴史による報復である。

デイリー新潮と同じく、江藤がなぜ「フォニイ」を退けるかを論じた一節を引いて、この稿を終わろう。TVやSNSを通じたニセモノばかりの拡散に辟易するいま、1974年の文芸誌(『文學界』6月号)に載った短い一節に胸をえぐられるのは、ぼくのみではないことを信じて。

最後にもう一度、“フォニイ”という言葉の意味を確認しておきたい。私はどの場合にも、ヴァン・ルーン〔米国の作家・歴史家〕の文例の、 《内に燃えさかる真の火を持たぬまま文を書き詩を作る人間は、……つねにフォニイであろう》 という意味において、“フォニイ”といったのである。

江藤淳『リアリズムの源流』291頁

参考記事:

言論人にとって「批判」とはなにか?:『江藤淳と加藤典洋』刊行によせて|與那覇潤の論説Bistro
いよいよ本日(5/15)、新刊『江藤淳と加藤典洋』が発売になる。ヘッダーのとおり、上野千鶴子さんが、過分な帯を寄せてくださった。 ……と、殊勝なことを書くと「口先だけで、お前ホントは恐縮してないだろ?」とか絡む人が出てくるけど、そんな次元の話ではない。
二人の巨人と辿る戦後80年間の魂の遍歴 『江藤淳と加藤典...