結局、江藤はその後、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』〔1976年〕を「サブカルチャー」として否定し、4年後には意外にも田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を褒め、文藝賞選考委員としてサブカルチャー的な作品に受賞させるという、よく知られている迷走をした上、……
『現代文学論争』76頁
たしかに江藤は『近いブルー』を「サブ・カルチャー」と呼んで批判したが、その語義は小谷野氏が想定するものとは異なる。令和の頭に出たムックに、江藤の稿が再録されているので引くと――
〔1950年代には〕明治、大正、昭和、戦後を通じて日本文学を支えてきた、文学は一国の文運を占うものという自覚が、雑誌の誌面に脈々と生きていた。全体社会に対して、文学は概して批判的だが、批判的であるがゆえに全体とガッチリと噛み合っていた。つまり、それは、まぎれもなくトータル・カルチャーの表現となりえていた。 (中 略) 文芸ジャーナリズムの膨張と逆比例して、作家は小粒で自閉的になり、トータル・カルチャーからサブ・カルチャーに転落していったように思われてならない。
中島・平山監修『江藤淳』67頁 (初出は『サンデー毎日』1976.7.25号)
江藤のいうサブ・カルチャーとは「トータル・カルチャー」の反意語で、自らの生きる国家や社会や時代の全体像を掴もうと努力することなく、「とりあえず俺にとってはこうなんすよ」と部分であることに居直る作風を指していた。ファッショナブルでポップでキッチュで……といった、いま風にいう「サブカル」の語義ではそもそもない。
小谷野氏は比較文学が専門で、文芸評論の書物が多く、受賞歴もある著名な著者だが、まちがえるときはこうしてまちがえる。ある書物が信頼に足るかを見るときは、肩書や専門や知名度ではないところを見なくてはならないという、あたりまえの事実をこの挿話は教える。